「私だって、したい」
岩井孝博・作
見えない、濃厚な復讐だった。
都会のアパートに住んでいた会社員の紳士とその婦人が、育て上げた一男一女が独立すると同時に、郊外の10階建てマンションの2階の一室を購入し、移り住んで5年になった。
二人は還暦に近いというが、病気知らずの元気そのものだった。
互いに空気のような存在なのか、多くを言わずに過ごせる仲になっている。
共通した趣味は散歩だったが、妻は編み物を、夫は庭いじりが好きだった。
二人の散歩は近所の目にも羨ましいものだった。
夫が時折道端にしゃがんで季節の野草花を見ていると、その夫を妻は少し振り向くが、かまわず先へ行く。
やがて夫がいくつかの花を手に妻を追いかけ、その花を手渡す。
妻は花を愛で、夫に微笑を向けた。
夫の庭いじりの趣味といっても、広い庭があるわけではなく、ベランダに小さな箱庭を作っていた。
松や桜と言った類はないが、垣根になるような夾竹桃やヒイラギなどが、一二株やバラの株もある。季節の花に囲まれ、ヒマワリが一本だけベランダの手摺より大きくなっている。そして、
「あなたと同じね」と、妻の冗談に夫は照れた。
妻は躾の厳しい家庭に育ち、彼と職場結婚するまで処女だった。
夫は今流のイケメンで、女性との噂が絶えず、彼女との結婚後も浮気の二三度はあり、その都度妻からは単純に呆れられていた。
責める事をしない妻に、むしろ申し訳のなさを強く感じ、40歳を過ぎる頃にはまじめな生活をした。
が、一男一女は街で女連れの父を見かけていた。
*****
うっそうとした新緑の森を、五月晴れの空が包んでいる。
新緑の陰から、茶屋の黒い瓦屋根が覗いている。
風の無い空に浮かんだ雲も、太陽を枕にどこか眠そうに見えた。
保温の水筒を手にした婦人と公園墓地の茶屋の前に来た二人が、茶屋に背を向け、並んでそっと指にふれあい、しばらく新緑の森を見渡した。
「いよいよ還暦ね」
「今朝の電話、なんだったんだい」
夫は薬学科を出た息子からの電話の事を妻に聞いた。
「久しぶりに家族で食事しないかって、子供たちも結婚をすればそんな事もなかなか出来ないだろうからってね」
目立つ服装でも、裕福そうにも見えない。
ただ、妻に気遣う夫の優しさが偲ばれる姿だった。
顔を見合うと、何かうなずき合い、茶屋に入った。
「ごめんください」と入って空いている席に向かった。
愛想のいい店の子がお茶を持って近づいた。
「いらっしゃいませ」
夫は四人用の卓の椅子を確かめ、その椅子を引き妻にすすめた。
妻が座ると、隣に並んで自分も座った。
向き合っている周りのカップル客が、何気にこの老夫婦に目を引かれた。
「カケで、お願いしようかしら」
「私はザルがいいな」
「かしこまりました」
「あ、後であんみつを二つ」
「はい、少々お待ちください」
周りから聞こえる話し声に視線を移しているのか、店内を見渡しているのか、二人は言葉もなく、時折顔を見合わせては、頬をほころばせる。
何度かそうしている内に二人は、相手の笑顔の隅々の皺を数えるように見合って他所を見ることが無くなった。
さっきの女の子が二人を睨んで唇を噛んだ。
「あの時はまったく辛かった」
「でも、不思議でしたわ。男の不思議さって言うのかしら、なんとなくこんなものかもしれないという気がして」
「その分、考えてしまったな」
「その真面目さから、やっぱり離れられなかったわ、私」
「そうかい」
「貴方は男の特権みたいに思った事、あるの」
「ある、けどない」
「ふふ、そうなの」と彼女は言ってから、
「でもね、どうして怒り天を突かなかったのかしら私」
「突いたと思うけど・・・」
「あら、そうだったかしら」
そんな昔を話し、二人は公園墓地に入り、お参りを終えると、
「あんみつの所為かな、少し喉が渇いたよ」
夫は我が家の墓石を見ながら歩行通路を挟んで向かいの墓地の区切りブロックに腰を掛け、妻の持っていた水筒からの水を受け取った。
夫は膝に肘を置き、両手を額に当てた姿で下を向いた。
「そろそろ帰りましょうか」と妻が言うと、ブロックに座っている夫に背を向けた。
*****
公園墓地の入り口に、長男と長女が車で待っていた。
誰も、お父さんは? と聞かない。
妻が後ろを振り向くとスタスタと歩き出した。
三人は墓苑に入っていった。
夫は同じ姿でそこにいた。
長女が父の肩を左から軽く押すと、その体は右にゆっくりを傾いた。
長男が携帯で救急車と警察に電話をした。
遺体はすぐ司法解剖に回され、重度の出血性胃腸炎が検視され、オレアンドリンによる中毒死と判明した。
妻は警察の質問に、
「強心剤だからと自分で何かやってはいましたが・・・」
「分からなかったのですか?」
「はい」
「夾竹桃が猛毒という事は?」
「あの人から聞いて、知っておりました」
――1年が過ぎた――
****
ある日、娘から、
「お母さん、お金使い過ぎじゃなの」
「いいじゃないホストの一人くらい。あぶく銭なんだから」
又ある日、息子に、
「夾竹桃のお茶なんて、あなたに教えられなかったら、まだ続いていたわね。あの人の浮気」
「箱庭、なくなっていたけど」
「お茶、飲みたくないもの」
―― 了 ――
×何気に
○何気なく ですね。
最近はよく使われる表現ですが、書き言葉になるほどには浸透していない様に思います。
薬学科の息子、夾竹桃、と伏線が張られているわけですが何気なさ過ぎて見落としてしまいそうです。
気付かせないことばかりが伏線の技術でもないでしょう。
また、改行がやや多すぎる印象を受けます。
Iwaiさんの次回作に期待しております。
このサイトに寄生して早三年以上の物書き 時雨薫より