【文豪】

記憶と現実 <2-2>

――付き合って二年になる彼とは別れる気配はなかったが、かといってすぐに結婚する気配もなかった。私たちの関係は良くも悪くも安定していたが、時々するけんかの度に、私たちの心の距離がなんとなく離れていってしまったように感じていた。

私たちのけんかはいつも、最初から最後までとても静かで、ほとんどけんかとは呼べないものだった。それは毎回彼の言葉から始まった。基本的に慎重で反応の鈍い私は、話好きな彼の話についていくのが精いっぱいでつい遠慮してしまい、話の途中で問いただしたり怒ったり不満を言ったりすることができなかった。しばらくたってから、私の心の動揺や違和感と共にその瞬間の彼の声や表情がよみがえり、頭の中で幾度となく正確に再現され、忘れるどころか部分的に抜き出されたことにより前後の文脈を失った言葉は私の耳に深く掘りこまれ、彼の軽薄さや差別的な思想を確信するようになっていった。そうなってからはもはやそのまま人知れず胸にしまっておくことはできず、最終的にそれを我慢せずにすっかり外に吐き出さざるをえなくなった。

私は彼がまた同じ失言をするのを静かに待った。突然その話題をぶり返すというのは不自然で大袈裟すぎるし、彼も発言したことを覚えていないかもしれなかった。それにそういう改まった緊張感には耐えられないと思った。そして、その瞬間が再び訪れたとき――今となっては不思議なほど、なぜだかいつもその瞬間は驚くほどすぐにやってきた――彼の目を見ることすらできず、息を詰まらせながらもやっとの思いで、不満を小さく口に出した。返事として彼は一言、「ごめん」とだけ言った。いつもそれ以上は何も言わず、言い訳もせずただただ黙っていた。

この静かなけんかの後は私も彼も、もうその話題には触れないのが普通だった。それは二人の間で、もう二度と訪れることのない場所のように見えないベールで隠された。度々同じようなことが起こり、立ち入り禁止の場所はどんどん増えていった。横着で楽観的な私たちは、残された場所はまだまだたくさんあるのだから他の場所へ行けばいい、世界はまわりつくせないほど広いのだから大丈夫だ、と思い込んでいた。消えないわだかまりと不信感と軽蔑の念が私の中で積み重なっていき、そうしてついに、彼に触れても何も感じなくなった。彼の目を見ても、心地いいと感じなくなった。

私たちはもっとお互い躊躇せず一歩踏み出して、本音で話し合うべきだった。きちんとひとつひとつ丁寧に長い時間をかけて解決するべきだった。そうやって仲を深めていくべきだった。禁断の地をそうたやすくどこにでも作ってはいけなかったのだ。私たちはもはやどこへも行けなくなってしまった。

こんな状況でもなかなか彼との別れを決断することができなかったのは、そもそも彼が最初に言った時点で反応したり追及したりすることのできなかったにも関わらず彼の失言をいつまでも根にもつ自分に一番問題があるように思えて、彼と別れて他の人と付き合ったところで結局また同じことになるのではないかと考えたからだった。

私は彼のどこが好きだったのか? それは、彼がいつでも彼自身の考え方を変えずに、ぶれることなくしっかり持っているところだった。彼は基本的に心を許している数人の仲間(私を含む)以外に対して異常なほど疑り深く、そういう人たちからの助言にはほとんど耳を貸さなかった。彼は意志が固く大雑把で、周りの意見を気にしなかった。あらゆる可能性を意味もなく洗い出し、小さなことまでいちいち気にして必要以上に思い悩み、意思が定まるまで時間のかかる私とは正反対だった。一つしか年が違わないのに彼はとても落ち着いていて堂々として見え、おそらく私は最初彼のそういう部分に憧れていた。しかししばらくして、彼のようにはなれないと思った。彼は周りの目を気にしなかったが、私の気持ちも気にしなかったからだ。

この頃の私は、彼についてもう諦めていた。ただ今急に関係を変えるのはなぜだかすごく面倒で、重大なことのように感じるというだけの理由で後回しにしていた。数年後別れてからやっと、彼の存在は私にとって実は長い間大きなストレスであったのだということに気がついた。それは長い冬がおわり春になってからようやく、冬がどれだけ寒かったのかということに気づき、春というのはこんなにも暖かいものだったのかということを実感するのと似ていると思った。

 

 私たちは、口の部分がわずかに広がった背の高い細いグラスでビールを飲んだ。晴日と私は共に学生だった頃、大学近くのアイリッシュ・パブに通い詰めて、ニスを塗ったキャメル色の木でできた椅子に座り、重たいジョッキで何杯もビールを飲んだ。そして幾晩も繰り返し飽きることなく、将来の夢や理想的な生き方について熱心に語り合った。当時は恥ずかしさや見栄ではっきりとした言葉で口に出すことができなかったが、私たちのやりたかったことはだいたい一致していたように思う。彼女は私より何倍も社会性を重視していて、世渡り上手で、彼女の裕福な家庭環境から保守的でもあったので、人前で奇抜な意見を言うようなことはめったになかった(私の前ではいつも彼女は本音で話していたから、私には彼女が嘘つきに見えた)。そして彼女は、誰もが知っている大手の会社に就職した。小さな白い花びらが描かれた淡いベージュの長い付け爪を見て、彼女はもう音楽はやっていないということがわかった。私はそのことに関してあえて聞いてみたりはしなかった。大学時代の仲間はほとんどもう音楽を辞めていたし、私も同じだった。

あの頃他の誰より長い時間一緒にいたのに、三年ほど会っていなかっただけでなぜだかすごく遠くに感じられた。彼女がいま、心の底で本当は何を考えているのか、彼女自身の人生にどれだけのものを求めているのか、私にはもう全然わからなかった。

著者

Ria
小説家志望です。
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