【文豪】

蜘蛛の足

 たった二本では不便だろうといって蜘蛛が足を譲ってくれた。彼は全部くれると言ったけれど僕は紳士だから平等に分けようと言った。だから僕も蜘蛛も五本づつ足がある。

 五は奇数だ。どうしたって一本余りが出る。この使い方が思い浮かばない。だんごむしも百足も足は偶数だという。調べてみるとひとでの足が奇数だ。それも五本。教えを乞おうと海へ行った。ひとでは足が五本でも苦労することはとんとないと言った。苦労しないコツはなにより動かないこと、海底にへばりついて生きることらしい。

 これはいいことを聞いた。家に帰ってさっそく試してみた。床にへばりついて一時間テレビを見た。二時間本を読んだ。すこし昼寝した。トイレに行って、戻ってきて、それからずっと動かないように努めたけれど九時間もすると限界が来た。まだ何か教わり足りないことがあるらしい。もう一度ひとでを訪ねた。

 「やっぱり、だめなんだ」僕は言った。

「何がさ」ひとでは大儀そうに答えた。

「テレビを見て本を読んで昼寝して、すこしトイレに行ってから、またずっと動かないでいるだろう。九時間もすると飽きちゃうんだ。君のように出来ない」

ひとではだめだだめだと手を振って、

「あきれた。そんなにいろいろしてたのかい。人間っていうのはすこぶる器用だね。じっとしながら何かするなんて」

それから僕を見上げて驚いたように、

「あんた、何だい、二本も腕があるのかい。それじゃ七本足だ。あたしには何も教えられないよ」

これにはすっかり参ってしまった。彼らは腕も足もいっしょなのだ。後で知ったことだけれど彼らは腕足類という仲間らしい。ひとでは僕の先生に蛸をすすめてくれた。

 翌日僕は蛸にあった。けれど、何度数えてみても彼の足は八本ある。不思議に思ってたずねてみると彼は茹で蛸みたいに真っ赤になって、

「まぁなんだね。私の足の一本はつまりはあれなのさ。夫婦の営みに必要なものなのだよ」

蛸の足の使い方は本当に器用だった。獲物が近づくと七本の足をきゅっと絡めつけてゆっくり口へ運ぶのだ。優雅だった。

 今度こそいいことを聞いた。さっそく家へ帰って試してみた。玄関を開けると大きな蛾が飛んでいた。蛾を食べたことはないけれど美味しそうに見えた。蜘蛛の足をもらったからだ。しずしずと近づいて足でからめとった。蛾ははらりと崩れて床に落ちた。これでは蛸のようにはいかない。やはり聞き漏らしたことがあったらしい。

 また蛸のもとを訪れてみると僕の足を見て、

「吸盤がないんじゃなんにもならない」

人間は人間を師匠にするしかない、蛸は格言めかして言った。

 足が奇数の人間。僕の元カノが二年前に事故で片足を失っていた。なじみの喫茶店で偶然に会った。クラッチというらしい、変わった形の杖を両腕にはめていた。ズボンの右の裾を膝の上で留めていた。

「うちの中なら杖なしでも苦労しないよ」彼女は言った。

「慣れちゃえばけんけんだけでどうにでもなるもの」

 いいことを聞いた。家に帰って試してみた。持て余していた足を地につけて力を込めた。兩手と脚とを平行棒にバランスをとった。何度やってもうまくいかない。足の多い体は重心がわからなかった。まだ聞き逃したことがあったろうか。

 ラインで聞いてみるとあきれたように

「多い分にはいいじゃない」

 次の日僕は蜘蛛に会った。蜘蛛は巣の真ん中でまどろんでいた。

「蜘蛛さん、きみは五本足で難儀してないのかい」

「まさか、これっぽっちも。体が軽くなって快適だよ」

「僕は難儀してる。一本持て余してるんだ。返してもいいかな」

 蜘蛛は四つの眼でじろりと僕を見た。

「眼も四つもいらなくてね、誰かにあげてしまおうと思ってる。余計なものを持ちたくないんだ。返すだなんてとんでもないことを言わないでくれ」

とても交渉できる様子ではなかった。食べられてしまう前にそそくさと帰った。

 帰り道、元カノが公園のベンチに座っているのを見た。彼女はボールを追いかける子供たちを眺めるともなくと眺めていた。僕は彼女がサッカー部だったのを思い出した。

 彼女に足を譲ったらどうだろう。彼女はまたサッカーを始めるだろう。彼女の背中を見てそんなことを思ったけれどすぐにどれも馬鹿馬鹿しい気がした。

 僕の足では彼女は喜ばないだろうから。

著者

時雨薫
時雨薫
中央アジアに行きたい。

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