【文豪】

トロイメライの春 七

 舞台裏の照明や大きな楽器を抜けた先は長い廊下でした。ドレスの裾を握って壁際にしゃがみました。膝の間に顔をうずめて泣きました。目をつむり熱い手で耳を塞ぎました。何も聞きたくありませんでした。何も見たくありませんでした。涙が頬をつたりました。息が落ち着いて、頭が冷めて、体のほてりを感じました。ぎゅっと自分を抱き締めてみたら、熱いくらいに温かくて、そのまま眠ってしまいたいと思いました。蛍光灯が明滅し壁も床も無機質に照らしていました。

 かたかたと靴の音がして、先生かと思って顔を上げたのだけれど、意外にも立っていたのは父の方で、目の合うより先に私の隣に腰を下ろしました。沈黙が時計の針を邪魔しました。涙は乾いていました。私は何も言わず壁の一点を見つめていました。

「その衣装はさ、」父が言いました。

「母さんの希望なんだよ。あいつ、お前が生まれたとき、いつか親子で連弾したいって、いつか一緒に演奏会に出たいって言ってさ、曲目もお前がそのとき着る衣装も、全部決めちゃったんだよ。まだお前、目も空いてなかったときだぞ。それから、すぐ、あいつ具合悪くなっちゃってさ、咳ばっかり出て、あんまりお前に近づいちゃいけないって言って、いつも遠巻きに見ててさ。辛かったろうな。抱き締めてやりたかったんだろうな」

 雨は本降りになっていたようでした。たんたんと地面をたたく音が壁を伝って廊下の空気を震わせていました。父の話し方に少し説教臭いものを感じて、むっとして、けれど言い返す言葉も無くて、私は尋ねました。

「お母さんはさ、どんな人だったの」

「真面目な奴だったよ」

「お父さんと仲良かったの」

「多分な」

 壁の染みがもやもやと動き出すような気がしました。父はスーツに身を包んで窮屈そうに胡坐をかいていました。天井を見上げてゆらゆらと体をゆすっていました。

「真面目な奴だったよ。それに、何を考えてるのか分からないやつだった。自分の世界を持っててさ、他人に立ち入られるのが嫌いなんだ」

「お父さんは入れてもらえたの、お母さんの世界」

「入口くらいはな。真面目な奴だったから。本当にもののわかる奴にしか共感されたくないみたいだった」

「そんなお母さんならいなくていいや」

 本心でした。写真でしか知らない母。物心つく前に亡くした母。ただでさえ無縁な人なのに父とも距離のある仲だったのなら、私にはいよいよ何の接点もない人

でしかありませんでした。

「先生からお母さんについて聞いたことあるか。あいつと先生とがどういう間柄だったか」

私は首を振りました。

「母さんも先生の教え子だったんだよ」

母と先生。不思議な組み合わせだけれど、腑に落ちるところがありました。私は先生から母性のようなものを感じていたから。

「自分と同じ道を歩んでほしかったんだよ、あいつは。自分の娘なら自分の世界を理解してくれると思ったんだ」

「わがまま。お父さんは嫌にならなかったの、お母さんのこと。いい人じゃなかったみたいに聞こえるけど」

「ならなかったよ。お父さんはあいつの音楽に惚れていたから」

著者

時雨薫
時雨薫
中央アジアに行きたい。

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