【文豪】

水槽の中


 

金魚が好きです。

水槽の中でユラリユラリと、飽きもせず泳ぎ続けているのを見るのが、大好きです。人間だったら、ずっと歩き続けているようなものですよね。僕には絶対にできないでしょう。しかも、こんな狭い四角の中で。

綺麗なのも好きです。きっと、歩いたり座ったりみたいな当たり前のことをしているはずなのに、こんなに優雅なのって素敵です。自慢の尾っぽがひらめく様子は、澄んだガラス細工のようであり、また、あどけない赤いプラスチックの、玩具のようでもあります。どちらも、小さいときに使っていた学習机の、木の肌を背景に、切ないように思い浮かぶ品です。

今僕が座っているのは、学習塾のプラスチックの机の前です。同じプラスチックの椅子は、軽くて柔らかくて、背もたれが後ろにひっくり返ってしまうのではないか心配になるほど頼りない。硬くてもいいから、パイプ椅子の方が何倍もましです。プラスチックが多い場所は、プラスチックの匂いがする。それは、僕が幼いときに遊んだ、色とりどりの玩具のものとは、全くの別物で、グレーばっかりの苦しい匂いに、頭が痛くなります。僕はいつからこんな所にいるのだろう。僕の居場所は、学習机のおいてある子供部屋や、木の床と黒板と実験器具と、金魚の水槽がおいてある、理科室であったはずなのに。

僕はまめな性格ではありません。金魚の水槽を覗いている時だって、勿論、ああ、なんて綺麗なんだろうとぼうっとすることもありますが、しばらくすると、大抵、余計なことを考えてしまいます。どうして水槽をつついて口をぱくぱくさせる時もあるのに、全然気にも留めない時もあるんだろう。ははん、さては君も相当な気まぐれ屋なんだな、とか。真面目に心を奪われるだけ、なんてできないのです。でも、目の前で余計なことを考えさせてくれる存在が好きなのです。それは決まって綺麗で、僕の目をふさいでくれます。今は何もしないで考え事をしてていいわ、だって周りからは、あなたは私に目を奪われているように見えているのだから、と言ってくれているような気がします。僕の取り留めない考え事は、日の光と一緒にプリズムに吸い込まれます。金魚の水槽は夕日の差し込む窓辺にありました。

今僕が目にしているのは、白いプリントです。新しい紙のすえた匂いのする紙の束から引き抜かれた、一枚のプリントです。文字も紙も、かつては僕の友達でした。しかし、どうでしょう。今となってはまったく、僕の空想を吸収してくれない。言葉は、はねっかえされて、僕の中を何度も何度も屈折しても出て行けず、ぐるぐるに絡まって溜まってゆきます。数字と外国語、記号、線に点に丸に、四角。平らなそれらを見て、ずっと、同じ繰り返しを予想するのが、つらい。金魚でさえも、毎日違う風に泳いでいるのに、僕はこれからずっとずっと、同じことの繰り返しに生かされるのかと思うと苦しい。僕は、金魚にはなれません。金魚と違って、この先何年も、何十年も、生きていかなくてはなりません。

「早く回してよ」後ろの男の子に催促されました。いけない。机は僕のだけじゃなくて、列になって沢山あることを、時々忘れてしまいそうになります。そして、それぞれの机に、若い人間が座っている。皆これから同じプリントを見て、同じ問題に頭を悩ますのです。よくよく考えたら、なんて不思議なことでしょう。最中、もしかしたら皆、同じ人間になってしまっているのではないかしら。後ろの席の男の子と、僕の脳ミソが入れ替わっても、気づかない、なんてこともありえます。あ、いけない、消しゴムが見当たらない。

耳障りなブザーが鳴ります。白板のストップウォッチが動きだします。これから僕たちは一斉に入れ替わるのです。

ああ、戻りたい。膝小僧が痛くなるまで、水槽を見ていたころに、戻りたい。僕は美しい金魚になれず、子供に戻ることもできず、前にしか動けない不自由な学生でしかいられない。

水の中はどんなに動きやすいだろう。ひたひたとうるおって、中の生き物は乾くことを知らないのです。

狭い四角の中のは、ひょっとしたら楽園なのかもしれません。

著者

織本尚弥
織本尚弥
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