【文豪】

キンモクセイだったころ 下


 じゃ、じゃ、じゃ。持つところがないくらいちいさくなったチョークで、大樹は土管を塗り続ける。○×ゲームも塗りつぶされて、もう見えなくなってしまった。
「大樹は、樹奈のことが嫌い?」
「別に」
 チョークのかけらを手の中でもてあそぶ。きっと大樹の樹奈に対する気持ちは、うまく言葉にできないまま、こうやって心の中であっちに行ったりこっちに行ったり、ころころ揺れている。
「大樹は樹奈のこと嫌いじゃないよ、先生知ってる」
「……嫌いだよ。だいっきらい。あんな生意気なやつ」
 それから唇を噛む。ほら、そんなことを言って傷ついているのは結局自分だ。
「じゃあ樹奈は、大樹のこと嫌いかな」
「嫌いでしょ。当たり前じゃん。だからこどもっぽいとか言うんだよ」
「そうかあ」
 さっきのトンボがふらふら舞い降りてきて、私と大樹の間を通り過ぎていった。ふわあ、と、甘い風が後からついて来る。
「樹奈ってよくわかんない。最近変だよ。自分だってこどものくせに」
「そうだねえ……でも早く大人になりたいんじゃないかな」
「こどもだよ、樹奈は」
 こどもだよ。大樹は口の中で繰り返した。樹奈は最近、私から見ても大人びてきていた。おしゃれに気を配るし、リーダーシップが取れる。今日つけていたシュシュも、シフォンとチュールが重なった生地にパールが縫い付けられた上品なデザインで、他の女の子たちにうらやましがられていた。
 いつだって変わらない。変わるということは。どんなに抵抗したって無駄で、自分も、周りも、切ないほどに変わっていく。
 大樹の気持ちが分かりかけていた。もどかしさも素直さも、焦りも、優しさも意地悪な気持ちも、好きも嫌いも憧れも妬みも、全部。こどもの心に、矛盾はない。相反するものどうしが、当たり前のように混ざり合った感情。そこに嘘はない。どこまでもまっすぐな、とうめいだけでできた心――きっと私だって、そうなのに。大人もこどもも、おんなじなのに。
「大人って、何だろうね」
「わかんないよ」
「じゃ、こどもって、何?」
「……知らない」
 大樹がぷいっと横を向く。大人っていうのはね、嫌なことがあっても我慢できて、相手が傷つくことを言わない人のことだよ……センセイとしての私なら、こんなことを言うべきなのだろう。分かっていた。でも私は人間だし、私は女だ。大樹の前で今、センセイであろうとしたら、私は本当に大事なものを見殺しにしてしまう気がした。それはできなかった。それができないことが、今の私の唯一の正義で、誇り、なのかもしれなかった。
 私はゆっくり口を開いた。
「こどもはね、ちいさかったころの、大人のこと。大人は、おおきくなったこどものことだよ」
 大樹は数秒間、ぽかんと口を開けていた。それからぼそりと言った。
「マイちゃん先生、変なの」
「ふふ」
 誇らしさがこみ上げた。最大級の褒め言葉のような気がした。いつまでも、おおきくなった、こどもでいたい。そう思った。
「大丈夫だよ。大樹も樹奈も、おんなじように成長してるんだから。そんでおんなじように年取って、おじさんおばさんになっちゃうんだから」
「そんな先のことわかんないよ」
「でも〝そんな先〟がほんとに来たら、樹奈と仲良しでよかったーってきっと思うよ。お友達がいるのは、すごくすごく嬉しいことだよ」
 だから髪引っ張っちゃったことは、謝ろうね。ちいさな声で続けると、大樹の頭がかくん、と揺れた。よかった。私は安堵のため息をついた。風が吹いて、私と大樹の髪の毛がぶわっと膨らむ。すじ雲がちぎれて空に新しい縞模様ができた。
「ああーいいにおい!私キンモクセイ大好きだな!」
「僕も。でもさ」
 一人称が「おれ」から「僕」に変わってる。ふと気づいてこっそり微笑みながら、先を促した。
「キンモクセイの香りって……なんか悲しいよね。なんだろ。すごいいい香りなのに……忘れそうっていうか、かいでもかいでもつかめないっていうか」
 ふ、と体が浮いた、気がした。隣にいるはずの大樹が遠のいて見える。思わず手を伸ばして、大樹の髪をグシャグシャ乱暴にかき混ぜた。
「何すんの、先生」
「あんた心配しなくていいよ、ちゃあんと大人に向かってるから」
 汗で蒸れた髪が、風に吹かれて私の指の隙間からこぼれていく。大樹が、この空気に溶け合っていくような気がした。甘やかで切ないキンモクセイの風に、透き通るように溶けていく。私は今、いのちのかがやきを見ているのだなあ、ふわふわした頭でそんなことを思ってみる。
「いっぱいケンカしたらいいよ。いっぱい悩んだり間違ったらいいよ。どうでもいいとか関係ないとかくだらないとか……そんな寂しいこと、大樹が考えない限り、樹奈はいなくならないよ」
 私は第一ボタンを開けたシャツの襟元をぎゅっと握った。だいじなひとは、たくさんいる。守りたい人も、愛したい人も。守ってもらいたい人も、愛してもらいたい人も。当たり前になりつつあった、自分のコントロールできない気持ちと、それを適当にあしらって生きてきたこと、それらを考えたら胸が酸っぱいほどに締め付けられた。
 例えば好きだということは、何故こうも単純で、そして何故こうも難しいのか?
 例えば何故、こどもたちはきらきら眩しいほど輝いているのか?
 目の前の全てが、特別だ、今だけの一瞬だ。昔も今も、何も変わっちゃいない。だけどこんなふうに、ごちゃごちゃ考えていることがすでに「大人」で、頭でっかちな「オトナ」で、
「やっぱマイちゃん先生変だ。先生じゃないみたい」
「いいの。私一生変な大人でいたいなあ」
「えー、何それ」
 だからこれは今しかない。今しかないから、こんなに眩しい。
「あっという間に散っちゃうんだから、いっぱいかいでおこうね、胸いっぱい!」
「マイちゃん先生、鼻の穴膨らんでる!ぶさいく!」
「あ、言ったな」
 大樹が声を上げて笑い出す。秋の陽射しを浴びた大樹は今にも光に紛れてしまいそうで、それがなんだか悲しくなって、私はいつまでも鼻の穴を膨らませ続けた。街じゅうを満たすその甘い風を、精一杯吸い込み続けた。

著者

春野
春野
物心ついたときから、お話ばかり作って暮らしています。
日本語と料理と音楽と、梶井基次郎が好き。

未熟者ですが、どうぞよろしくお願いします。
批評を頂けるととても嬉しいです。

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