【文豪】

あいを知った夏(前編)


 どうしようもなく、恋をしている。

 事の発端は中学三年の六月。その日は雨がしとしとと降っていた。

 私は、授業中に消しゴムを落とした。

「あっ」

 思わず声が漏れた。急いで拾おうとするが、使い古された丸い消しゴムは勢いを落とさない。そのままコロコロと転がっていき、誰かの椅子にぶつかった。すると、その椅子に座っていた誰かが消しゴムを拾い上げた。

「はい」

 小声で言って授業の邪魔にならないように席を立ち、消しゴムを私に手渡してくれた。これが私の恋の始まり。これだけかって?そう、これだけなのだ。消しゴムを拾い、手渡してくれるまでの間に、私は恋をしてしまったのだ。

 とは言っても、最初からこの恋心を自覚していたのではない。もし恋の始まりというものを明確に定めるのならばこのときではないだろうか、ということだ。それはこの出来事の後から私は彼のことをなんとなく見つめていることが多くなったからだ。

 実際に会話を交わすことは少なくても、見ているだけで彼についての情報はいくらでも伝わってきた。帰宅部であること、読書が好きであること、あまりうるさく騒ぐタイプではないこと・・・。その中でも一番重要なことは、彼には不思議と人を引きつける魅力がある、ということだ。気づけばいつも何かしらのリーダーや役割を任されている。そしてもう一つ大事なのは、それに見合うだけの聡明さが彼にはあって、私もそこに惹かれたのだろう、ということ。

 ここまで分析を終えるまでの観察の中で、私は自分の中にむくむくと黒い感情が湧き上がっていることに薄々気がついていた。

 先ほども言ったように彼は様々な物事の中心となる人物だ。話しかけられることも多い。その中には当然女子も含まれている。私はいつの間にか楽しげに彼と話す女子に嫉妬するようになった。彼に気安く話しかけないで!と言いかける自分を何度も抑えた。私は彼の恋人ではないし、そもそも彼に話しかけていた女子だって用事があるから話しかけただけなのだ。わかっている、わかってはいるが抑えるのもそろそろ限界に達しようとしていた。それでも私はこの感情を無視しようとした。

 十三回目に女子への嫉妬心を抑えた日の夜。

 私は奇妙な夢を見た。
 何かが私に近づいてくる。恐怖から、私は逃げようとするが、何故だか逃げられない。それどころか、体が勝手にその何かに向かって歩いていくのだ。やがて何かとの距離がなくなる。ああ、食べられる。直感的にそう思ったとき、私は意識を落とした。

 ジリリリリリリ!!!

 目覚まし時計が鳴り響き、私ははっと目を覚ました。
悪い夢を見た。空調をつけていたのにも関わらず、じっとりと汗をかいている。不快感を覚えながらのろのろと起き上がり、そのまま洗面所へ向かう。

 顔を洗って鏡をチェックする。すると、何か違和感を覚える。何か、目がおかしい気がする。そう思って目を覗き込むと、左側の本来黒であるべきはずのそれが、真っ青に染まっていた。思わず、水をばしゃばしゃと目にかけた。それでも瞳は真っ青なまま。私は真っ青になった。

 何度鏡を見ても真っ青な左目。こんな事態だというのに私はどうすればこれを隠せるのかだけを考えていた。なぜか、眼科に行って診てもらおうという気は起きなかったのだ。しかしながらあまりにも突然の出来事で眼帯も持っていない私は、とりあえず前髪を左目にかかるように垂らすことにした。これで多少目を見られても見間違いだと思われるだろう。

 家の外へ出ると、じっとりとした重たい空気が体を包んだ。もうすぐ雨が降りそうだ。

 雨がざあざあと降っている。授業を受けながら、今日も斜め前に座る彼をぼうっと見ていた。ふと、彼が振り返ってこちらを見た。私は急いで目をそらして、黒板の方を見る。正直なところ驚きと羞恥で死ぬかと思った。私は自分で自覚している以上に彼のことが好きなのかもしれない。

 授業が終わった後、彼に話しかけられた。

「目、大丈夫??」

 予想もしていなかった展開に心臓の音がばくばくと鳴り響く。まさか、ばれた??

「・・・なんのこと?」

「左目、赤くなってるから。髪の毛と擦れたんじゃあないかと思ったんだ。」

 赤??私の目は、青かったはずなのに。折角の彼との会話だが早々に切り上げて手鏡を取り出す。恐る恐る前髪をあげると、そこには真っ赤になった左目があった。

 さらに数日経った。私の目に関して理解できたことは二つ。

 一つは私が何かしら、マイナスの感情を抱いたときに青くなるということ。もう一つは逆にプラスの感情を抱いたときに赤くなるということ。プラス、マイナスといっても、あくまで私が「良い」と思っている感情をプラス、「悪い」と思っている感情をマイナスとしているだけではあるが・・・。ともあれ、私は次第に髪で目を隠すことにも慣れていき、それどころか自分の感情をプラスかマイナスか、という形で明確に表してくれるそれに一種の好感を持つようになった。

 外では蝉がじりじりと鳴き始めた。もうすぐ夏休みだ。しばらく彼に会えなくなると思うと胸がちくりと痛んだ。

著者

今江菜歩
自分の中にある長い物語を小分けにして文章化していけたらと思います。

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