【文豪】

トロイメライの春 六

 演奏会の会場は公民館の小さなホールでした。一段高い舞台の上に、スポットライトをあびて黒く輝くグランドピアノが一台。ピアノ椅子に座って客席を見渡すと、その距離があまりに近いことにぞっとしました。

 あと一時間で、演奏会。

 最初にやってきたのはセーラー服、中学生になった以前の生徒たちでした。制服のせいなのでしょう、皆ずっと大人びて見えてました。一人が私の衣装を指してかわいいと言うと、他の皆も口々にかわいい、かわいいと誉めそやし、私は恥ずかしいような、悔しいような気がして、両手をグーにして俯いていました。五分もするとその話題にも飽きたらしく、先生の姿を認めると、皆そちらへ駆けていきました。

 しばらくして父もやってきました。白いワイシャツに、めったにつけない赤いネクタイ。少し濡れていました。車に雨具を積んどくのを忘れちゃってさ、言い訳するように父は言いました。私の知らないうちに、秋の雨が、また降り始めていたようでした。ぷにぷにしたお腹をちょっとつまんで、父が不満げな顔をするのを、そろそろ始まるからとなるたけ快活そうな表情を作って言い残し、先生のいる舞台裏の方へ逃げていきました。

 ピアノの音を確かめて、それから、先生に抱き付きました。ごわごわで、骨ばっている、抱き付きなれた感触でした。先生は私の頭を撫でて、またぎゅっと抱きしめました。

 ブザーが鳴って、真っ赤な幕の隙間から、観客席がおもむろに姿を現しました。中学生と、先生の友達のおじいちゃんたちと、お父さんと。妙に姿勢がよくなって、心臓が今までにないくらい強く自己主張して、膝頭が自分のものじゃないみたいに震えて、心配しなくていいよと自分に言い聞かせて、私は無理に正面を向きました。

 ハンガリー舞曲第5番。先生が、私の眼の奥を見つめて、大きく息を吸いました。

 先生の狂いのない低音に乗せて、華やかな高音部が流れていきます。微笑んでいるのでしょうか、視界の隅に映る横顔はいつもより柔らかく見えます。左手が鍵盤の上を跳ねます。きゅっと前のめりになってスピードを殺しました。二人乗りの自転車みたいだ、余裕なんて少しもないはずなのに、どこからかそんな考えが浮かんできました。強い打鍵、フォルテッシモで曲は再び勢いを取り戻します。

 例えるなら、階段を踏み外したような感じ。調和の中に鈍い音が交じって、それを追い払おうと耳を澄ませたのだけれど、黒い点はぽつぽつとふえていって、あっという間に私を呑み込んでしまったのでした。メランコリックな響き。曲を立て直そうと、先生の呼吸を感じようとしたのだけれど、私にできたのはむせび泣きのような浅い息だけで、視界が白く染まっていくような気がしました。

 低音は落ち着いていて、私にそっと寄り添ってきました。転調。先生の音を見失わない様に、人ごみの中で親にしがみつく小さな子供みたいに臆病で、慎重になって、機械みたいに弾き切りました。うわべだけの同情みたいな、うすっぺらいコーダ。狭いホールに雨音のような拍手が響きました。

 観客席は絶対に見ませんでした。ドレスの裾をしわくちゃになるくらいぎゅっと握って、胸から上が火照っているのを感じながら、私は駆けだしていました。

著者

時雨薫
時雨薫
中央アジアに行きたい。

コメントはこちら

Return Top