【文豪】

完成された不完全 2

散歩を終えた僕は、自宅の前まで戻ってきていた。
すぐには家に入らず、しばらくその場に留まり、自宅である平屋を眺めていた。
普通なら誰もが敬遠するであろう、この平屋を僕は初見で購入を決めた。
当時はもうトレードでかなりの利益を出せていたので高級マンションを購入することもできた。

洗練されたデザイン、万全のセキュリティ、そして良い物件に住むというステータス。
自分は特別な存在の一人なんだと実感できる方法の一つが恐らくこれなのだろう。

しかし、僕はそれに全く魅力を感じなかった。言い方は悪いが、そんな気取った所に
身を置くというのは、想像しただけで息が詰まるのだ。
僕という人間が特別である必要は無いし、華やかである必要もないと思っている。
何故?と問われれば、正直わからない……
むしろ、特別や華やかである必要があるのだろうか?特別でなくても、華やかでなくても、それが自分。
ただそれだけの事ではないのだろうか?

目の前の平屋に目を凝らすと、やはり目につくのは、スプレー塗料による落書きだ。
落書きの内容はほとんどが誹謗中傷だ。かなり辛辣な言葉もある。

他人に辛辣な言葉を浴びせるのに何の躊躇いもないのか?
自分の中の正義が膨れ上がりすぎれば、悪意になることを理解しているのか?
そして、どれだけ思いを込めようが、ただの文字には、善意も悪意も宿らないということも……

僕の事を本当に恨んでるかどうかもわからない人達が書いた文字の羅列は僕の心には届かない。
僕に直接、悪意や恨みをぶつけるのが一番確実だ。僕が落胆する様子も、その時に見れるのだから。
僕を落胆させたいのに僕自身を肉眼で見ようとせず、言葉の羅列に終始するのは矛盾してるのでは?
人を非難することさえも省略可し、効率化を求めるのだろうか?

そのように感じる僕の心は壊れているのだろうか?あるいは強靭なメンタルが備わっているのか?
……まあ、どっちであろうと関係ない、それが僕という人間なんだろう。
本当にただそれだけのことなのだ。

しばらく立ち尽くしていたら、またご近所さんが奇異の目で僕を見ていた。
僕は「こんにちは」と再び笑顔で挨拶をした。
やはりご近所さんは戸惑った様子だった。

家の中に入り、シャワーで汗を流し、ベッドに寝転がる。
このままひと眠りしようかと目を閉じようとした時、携帯電話の着信音が僕の意識を覚醒させた。
どうやらメールの着信のようだ。内容は……
゛明日9時。フォルテ。゛という短い内容だった。
思わず笑ってしまった。相変わらずだと思った。これで明日の夜の予定は決まった。

ピアノバー゛フォルテ゛繁華街の外れにある、良く言えば隠れ家的な、悪く言えば地味なバーだ。
生演奏を聴きながら、酒や軽食を楽しむ場所だ。
ある時、興味本位で繁華街に足を運んだのだが、すぐに気が滅入り、どこか落ち着く場所で休憩しようと
偶然見つけたのが、゛フォルテ゛というバーだ。

落ち着いた雰囲気が気に入り、たまに出入りするようになった。
演奏されているクラシックやジャズを僕はほとんど知らないが、割と楽しめている。
面白いと思ったのは、演奏中は店員を呼んで注文するのを客が避けていることだ。
別に禁止されているわけでも、暗黙の了解という感じでもない。
つい、店員を呼ぼうとして、手をあげた人が、まるで悪戯が見つかったように、申し訳なさそうに、
はにかみながら手を下げるという微笑ましい光景も何度か見た。
演奏が終わるとみんな一斉に注文やトイレに行くので、一気に慌ただしくなる。
そんな様子を見るのも楽しみの一つだ。

今夜は僕の知人がピアノの独奏をするのだ。不定期に、忘れた頃に、演奏の告知が僕に届くのだ。
あの簡素なメールがそうだ。

「ちょっと早く着いたな」
演奏が始まるまで、30分程あるが、まあいいか。店に入って、適当なウイスキーでも飲んで
開始を待つとしよう。
僕が店の扉を開けようとすると、後ろから、つんつんと軽く背中をつつかれた。

振り返ると、黒いドレスを着た、長い黒髪の、少女といっても差し支えない、女性が立っていた。
凛とした雰囲気と佇まいは、普通とは違う、住む世界が違うと思わせるには十分だろう。

「……おっす」
間の抜けたような声で彼女はそう言った。
彼女のいつもの挨拶だ。
「久しぶり。美冬」
僕がそう言うと。
「ん……ついてこい」
彼女はまるで自分の家に招くように僕に入店を促す。
昨日のメールといい、僕の知人は久しぶりに会っても相変わらずだった。
彼女の後ろをついていって僕は店の中に入った。







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