【文豪】

湯上がり


 唐突であるが俺は温泉が好きだ。
 特に予定のない休日なんかがあれば、車を走らせて箱根の方まで行く。
 そして温泉に入って帰る。観光は別に好きではないし、大体毎度同じ温泉なので、観光する気にもならない。
 元々温泉に通い始めたきっかけは、男なのに情けないと思われるかもしれないが、俺は冷え性でその体質改善のためだったが、数回も行けば目的は温泉に入ることに変わった。

 その日も起床時、温泉に入ろうと思い昼を済ませてから車を走らせて箱根に向かった。秋の半ば頃だから肌寒くはなってきたが、露天風呂との相性は最高だ。
 岩に囲まれた露天風呂の奥の窪みにちょうど人一人が余裕で入れる所があり、そこが俺の指定位置だった。  といってもその時間の露天風呂は空いていて誰もいなかったから、風呂全体が俺の指定位置という風に感じられ、上機嫌だった。
 広い風呂であえて狭い窪みに胡座をかいて湯に浸かる。10人は優に入れる広さをまさに湯水のように使った。いや浸かった。
 しばらく、外の遠くの方をぼーっと眺めていた。秋風が、時折ささやかに流れてきては火照った顔の熱を奪っていく。その度に手で湯をすくって肩や首にかける。人によっては無駄かと思うかもしれないが、その秋風との不毛なやり取りは俺は嫌いではなかった。もっともその秋風はいわゆる「三歩下がって夫の影を踏まず」という女性のような慎ましさがあったからこそでもある。
 しばらくして一人の年寄りが中から来た。一人でいたために気づかなかったが、俺はもうのぼせはじめていた。そこで、この風呂を独占出来なくなってしまったこともあり、上がることにした。風呂を出たあと時計を見ると2時間ほど浸かっていたようだ。

 湯上がりに貸してくれる浴衣を来て、体を冷まそうとロビーに向かうと、風呂がなぜ空いていたのか疑問になるほどオジサンオバサンでごった返していた。 いつもはここで、イスに座って適当に体を冷ますのだが、今日は空いていなさそうだ。
 そう思ったが、唯一数人掛けのソファーが空いていた。周りのオジサンオバサンは話が盛り上がり過ぎて座ろうとも思ってないようだ。一人掛けのイスがよかったが、座れるなら有難い。ソファーの右側に座り、ひじ掛けに頬杖をついて落ち着いた。
 ロビーに備え付けられているテレビをなんとなく見ていると、不意に「すいません」と声を掛けられた。完全に油断していたので、思わずぎょっとして振り替えってみると、そこにはこのオジサンオバサンの中では珍しく(人のことは言えないが)若い女性がいた。
 「隣、よろしいですか?」
 なんとなくナンパともとれる台詞だが、この女性からはそういった雰囲気はまるで感じなかった。
 別に共有スペースなのだがら黙って座っても構わんのに、偉く丁寧な人だなと思い、断る理由等ないので左手で「どうぞ」という風に促すと、女性は「失礼します」と会釈して座り、バックから取り出した文庫本を読み始めた。この謙遜とした中で、よく本が読めるものだと感心した。
 女性が隣に来て、喉が乾いたなと思った。やはり一人でいるとそういうことに気づかないようだ。売店で飲み物を買うことにした。これは俺にとっては習慣で、いつもフルーツ牛乳を飲むのが決まりだった。
 しかし、その日はコーヒー牛乳がやけに飲みたくなった。悩んだ末、優柔不断に二つとも買った。習慣を壊すのは存外嫌な気持ちになるからだ。
 席は流石に空いてる筈がなかった。日も傾き始め、常連客以外に観光客も来始めるからだ。だから、さっきまで座っていた席をダメ元で見ると少しばかり驚いた。女性が俺の座っていた所に自分のバックを置いていて、俺を見るなり「どうぞ」と微笑んだのだ。
 ありがたく座ったが、有り余る好意に一瞬戸惑った。そして戸惑った俺は左に持っていたフルーツ牛乳を「よかったら」なんて言い差し出した。
 「え、でも悪いですよ。」
 女性は遠慮したが、俺は「二本も飲んだら夜食えなくなります。」と随分固く言って、そうすると女性も折れてビンを受け取った。迷ったことが幸いした。
 飲み終えるとビンは女性が売店に返してきてくれた。  「お礼のお礼ですね」そう言っていた。
 牛乳を飲み終えてから数分すると俺はうたた寝していた。風呂に入って糖分をとったから仕方ない。
 そんな時に女性は本を読み終えたのか、パタンと閉じて立ち上がり、私に「ありがとうございました」と礼を言った。
 俺は寝ぼけていたから何か曖昧なことを言った。しかし女性が去った直後、俺は一気に目が覚めた。何故かはわからない。
 そして寝起きの頭はなにやらよくわからいことが渦巻いていた。渦巻きが落ち着くと俺はスクッと立ち上がった。あまりの勢いだったのか、近くのオジサンがぎょっとしてこちらを見ていた。
 立ち上がった俺はもう少し考えると、浴衣とスリッパという最悪のコンディションの中、出来る限り早く走った。周りが見たらみっともない大の大人に見えたことだろう。
 その時の俺にはみっともなくともよかった。とにかく女性に追い付きたかった 。
 そして追い付いた。
 女性の肩に手を置くと、彼女は振り返った。さっきは全く気づかなかったが、美しい人だなと思った。そして、話しかけた。
 「あの―――――――
 この時話しかけたことを後悔してはいない。しかしあまりにもどもってしまったことを反省はしている。

 出会いにしては少しばかり格好がつかないじゃないか。

著者

深見創
深見創
ねじ曲がった倫理観を持った学生。
執筆歴は一年と少々。
英知をもった正しい道徳心を持つのが夢。

拙い文ですが、よかったらお読み下さい。批評していただけるとことさらに嬉しいです。
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