【文豪】

トロイメライの春 五

 

 とにかくその日の朝は憂鬱でした。目を覚ますなり、天井が私の方へ迫ってくるような感じがしました。髪はいつもにましてボサボサでした。朝食のトーストは真っ黒に焦がしてしまいました。その真っ黒なトーストをおいしいと言って頬張りながら、お父さんは今日の演奏会のことについていろいろと尋ねてきました。

 トロイメライというのはどんな曲なのか。知らない筈ありません。お父さんはわざわざそのカセットまで買ってきたのですから。

 緊張しているか。しています。ものすごく。

 衣装は気に入っているか。この質問は答えに窮しました。正直に言えばあまり好きではなかったのです。フリルが沢山ついたいかにも女の子らしい薄いピンクのドレス。子供っぽ過ぎるような気がしました。しかしその通りのことを言ってしまうのは、お父さんを深く傷つけてしまいそうな気がしたのです。小さくうんと言って頷くと、お父さんは満足した様子でほほえんで、コーヒーをすすりました。

 このドレスを買ったのはその前の週、母の命日でした。母の墓は郊外の小高い丘の斜面にあります。水の入った重い桶を持ってその急な坂を上った後、そこから見える街の景色をぼんやり眺めているのが好きでした。その日はあいにく、ずっと降り続けている糸のような雨のせいで遠くの方は白い影が揺らいでいるようにしか見えなかったのですが、お尻が濡れるのにも構わず石段に腰かけて、やはり私はじっと遠くを見つめていました。父は墓前で私の近況を報告していました。演奏会という言葉が聞こえるたび、ほんのわずかにではありますが不快な感じがしました。

 その日の午後、父は私を百貨店に連れて行きました。演奏会の衣装を買うためです。私はなるべく地味な黒や紺のおとなしいものがいいなと思っていたのですが、売り場に着くなり父はその薄いピンクのドレスを絶対に似合うといって試着させ、そのままほかのものも試させずに買ってしまったのでした。勿論、腹立たしく思ったのですが、父が私の好みや目立ちたくないという気持ちを理解していないのもある意味では当然なような気がして、強くは言えなかったのです。

 演奏会の日。昼には教室で本番に向けた最後の練習を始めました。トロイメライは思うがままに気持ちを乗せて弾きなさいとのことでした。きっとどうしようもなく暗い演奏になる。口には出しませんでしたが、どうしてもそう思ってしまいました。その後は先生との連弾曲の練習です。音が絡み合う感じがたまらなく好きでした。いつも先生に下から支えてもらっている安心感があったので、この曲で緊張するということはないと確信していました。

著者

時雨薫
時雨薫
中央アジアに行きたい。

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