【文豪】

夏の黒煙1


 三方を山に囲まれ、二筋の川が合流するF市、私はそこに十五歳の夏を置いてきました。瞼を閉じれば眼前に蘇る、一度だけの永遠の夏。あれから十回以上の夏を繰り返してきたけれど、今でもあの夏を思い出します。

 母は厳格な人でした。人一倍恥に敏感で、間違った行動をとることを怖がっていました。私と父はやれ服装が乱れているだの、やれ歩行時の体がやや右に傾いていて醜いだのとよく叱られたものです。私達を叱る時の彼女の目は哀しみの色に染まっていましたが、私が十歳のときにその色の奥に私達に対する彼女の優越感を感じ取って以来、母の顔を正面から見ることができなくなってしまいました。私が中学校に入学した年の八月、父の不注意で母は右の頬に唇の端から耳の付け根まで大きな火傷を負い、部屋に篭ることが多くなり、外に出るときはその火傷跡が隠れるように大きなマスクを付けるようになりました。その時からでしょうか、我が家の父の声はだんだん少なくなっていき、私はいつしか父の声を忘れてしまっていました。

 父は以前はとても優しく、まだ幼かった私を連れて川に小魚を捕まえに行ったり、山でカブトムシを捕まえに行ったりしました。いつも帰り道では、私の頬の下に彼の大きくて温かい背中がありました。

 十五歳の春、私は地元のF市立高校に入学しました。入学式には父だけが見に来てくれました。F市立高校は大きな校門が有名で、その校門の横に慎ましく咲いている桜の木が私は大好きでした。門をくぐるたび、桜から桃色の風が私の髪を軽く揺らし、それはまるで新しい学校生活に期待と不安を秘めた私の心のようでした。

 入学式の翌日、私達新入生は各々の教室に行き、番号順に並んだ自分の席に座って期待を込めた、不思議なものを見るような目で担任の先生の自己紹介を聞きました。

「今日から一年間、君達の担任を任された嶋田です。担当科目は現代文で、趣味は釣りです。よろしくお願いします。」

 まだ二十代の域を超えていなさそうな若々しい先生の不慣れな紹介を聞いて、私達は自己紹介で何を言おうか、どういう立場を確立しようかといったことに考えを巡らし始めるのでした。

 目の前の女の子の番になりました。その頃にはクラスの半分ぐらいの人が紹介を終え、緊張の解けた面持ちで話を聞いています。それは目がくりっとした、日本人形のような黒髪の少女でした。彼女は立ち上がって、クラスをぐるっと見回して簡素な自己紹介をしました。名前は山田さんと言うらしいです。その月並みな自己紹介と名前に反して、私は山田さんに特別な感情を抱きました。今思うと、これが私の初恋というものだったかもしれません。

 私の自己紹介も危なげなく過ぎ、クラス全員の紹介が終わりました。先生が教室を出た後、クラスの中では友達を作ろうと数人が集まってさらに人を呼び、幾つかの大きなグループができていました。私は比較的女の子の多いグループのなかで「好きな本は『伊豆の踊り子』です。」と楽しげに喋る彼女を、別のグループのなかから机に頬杖をついて眺めていました。

 

著者

uporinn
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