【文豪】

小夜風よ、ヴィオラよ

 A線の音を合わせながら、こう考えた。

 ヴィオラ弾きは不憫だ。ヴィオラは恵まれない楽器だ。ヴィオラは、ヴァイオリンのように囀ることが出来ない。ヴィオラは、チェロのように唸ることも出来ない。

 ヴィオラの音は他のどの楽器よりも乾いている。

 誰もいない旧校舎の教室で、独り、ほこりの落ちる音も聞こえる静けさの中調弦していると、頭の中の、何か普段は使われていない回路が目を覚まして、私はこんなふうに、深い物思いに耽るのだ。

 金具の軋む音がして振り返ると、チェロの先輩が、パイプ椅子を脇に抱えて入ってくるところだった。こちらを見て、今日も早いねと声をかけてくる。いつもの光景。いつもの日常。

 私は音階練習の楽譜を出して、整然と並んだ四分音符の一つ一つを、注意深くなでていった。小指の位置がどうしても合わない。「上手くなったんじゃない?」先輩が言った。どうなんだろう、よくわからない。

「そろそろ楽しいと思えるようになるよ」

先輩は椅子に腰かけて、弓の毛を張りながら言った。

 ヴィオラとヴァイオリンとの間には、ヴィオラの方が一回り大きく、音域が弦一本分低いという差しかない。だと言うのに、この両者はどうしてこうも違うのだろう。ヴァイオリンの華やかさが、ヴィオラにはない。ヴィオラの存在感はとにかく希薄だ。

 私もヴァイオリンが弾きたかったのだ。

 中学ではバレー部だった私が弦楽部に入ったのに、特別深い理由があるわけではなかった。友達に誘われて見学に行った。音楽に興味なんてなかったはずなのに、弦の音に魅せられてしまった。だから入部した。私を誘ったはずの友達は写真部にいる。

 ヴァイオリンは十分に人数がいるから、ヴィオラを弾くようにと言われた。同じようなものだろうと思って、受け入れた。まるっきり違っていた。

 

 アイネ・クライネ・ナハトムジーク第一楽章。この曲を仕上げることが部活の目下の目標だ。小さな夜の音楽という意味のドイツ語なのだと先輩が言った。この人は音楽に関することなら何でも知っている。

 いくつかの確認の後、指揮棒が高く振り上げられた。

 重厚な和音が力強く鳴り渡り、ヴァイオリンの主旋律が律動するチェロとともに弾むように駆け抜ける。音の総体は波打つように強弱し、繊細なフレーズの連続が雫の落ちるように響いた。

 私は必死に合わせようとするのだけど、上手くいかない。どうにか弾けたところも、甲高いヴァイオリンにかき消される。本当にヴィオラを好きになんかなれるのだろうか。そんなことを考えているうちに、合奏の時間は過ぎていった。

 耳たぶが熱い。楽器を背負って旧校舎を出た。

 夜風が吹き抜けて、舞い上がった木の葉が乾いた音を立てて転がっていった。

 見上げると、秋の空。秋の夜空はさびしい。夏の夜空のような恋物語も、冬の夜空のような絢爛さもない。

 心惹かれて、仄かに煌く星をぼんやりと見つめていると、次第に頭が冷えていくのを感じた。風は吹いている。心地よい音楽のように揺らいでいる。

 秋の夜でなきゃだめだなと思った。

 静かだ。弱くて優しい。

 取りとめのない考えが星と星の間を行き来するうちに、ふと、流れ星の落ちるみたいに、ヴィオラも悪くないものだと思える気がした。

著者

時雨薫
時雨薫
中央アジアに行きたい。

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