【文豪】

りんご飴【1】


 工場ぞいの路地は当時と変わらず街灯がほとんどなく黒く沈んでいた。人通りといえば朝と夕方に出退勤する工場の職員の姿がちらほら見られるくらいのもので、夜ともなれば海の底みたいに静かで人ひとり通らない。そのせいで子供のころはこの道を使うことを禁止されていたが、隠れていつも通っていた。神社に行くには一番の近道なのだ。

「なんか気持ち悪い道」

 麻衣がそっとぼくの腕に手をまわしてきた。ささやきに近い彼女の声は静寂が深いせいでやけにくっきりと響いたがすぐさま熱湯に放りこんだ氷のかけらのように溶けてなくなった。工場の門を通り過ぎてしばらく歩くと電柱が見えた。あの角を曲がればもうじきだ。そう伝えようとしたとき、突然麻衣が、短いかすれ声をあげぼくの腕を強くつかんだ。

 彼女の視線をたどってみると、電柱のかげに人の姿のようなものが見えた。一瞬ぎょっとしたが、すぐに防犯用の立て看板であることに気づく。警官の姿をかたどった板きれに「通り魔に注意!」と書かれている。いかにも稚拙な筆で描かれた警官の姿かたちの異様さから当時から友達と笑いの種にしていたが、いまだに残っているとは驚きだ。近寄ってみると、長い年月を経たせいか、警官の眼のあたりの塗料がにじんでまるで涙を流しているように見えるのが異様を通り越して不気味だった。麻衣が驚くのも無理はない。

「びっくりした。何よあれ、通り魔よりよっぽど恐いじゃない」

 麻衣は猫の死体を避けでもするように、電柱から最大限に離れた排水溝ぎりぎりを伝いながらも恐いもの見たさからか、看板から目が離せないようだった。。

電柱の角を曲がったところで、淡い光の群れが目に飛びこんできた。

「きれい」

 麻衣が歌うように言った。国道をはさんだ向こうは境内まで石だたみの道が続いている。その道の両側に無数の夜店が立ち並んでいるのだ。実家を出てから何回か帰省はしているが、決まって夏祭りの時期からはずれていたので、この光景を目にするのは十数年ぶりだろうか。麻衣は、結婚前の両親との顔合わせのため去年の秋に一度連れてきたきりなので、もちろん夏祭りは初めてだ。

 綿菓子、金魚すくい、やきそば、射的。夜店は幼い頃のぼくの記憶そのままだった。懐かしさに胸を躍らせながらひとつひとつの屋台をのぞきこみながらぼくらは歩いて行った。

 ある屋台の前で、麻衣が何かに気づいて立ち止った。小さくて丸いものが赤く光って並んでいる。りんご飴だ。

「へえ、りんご飴って初めて見た」

 夜店にはつきもののりんご飴を見たことがないとは少し意外だったが、都会育ちの彼女はこれほど大がかりな夏祭り自体初めてのようなので、そう不思議でもない。

「食べてみる?」

そう聞くと、麻衣は、顔を近づけてまるで観察するようにりんご飴を色々な角度から見つめながら少し迷っているようだった。

「すごく甘そう」

 麻衣はぼくと同様お酒が好きで、極端に甘いものはあまり好まない。

「食べたことあるんだよね。どんな感じ? 甘すぎたりしない?」

 麻衣に尋ねられて、ぼくは記憶をめぐらせた。そういえば一度だけ食べたことがある。小学生の頃、この夏祭りの屋台で買ったのだ。同じクラスの女の子と一緒だった。名前は、そう、確かひとみちゃんだった。名字は忘れてしまった。髪が長くてほっそりとしたかわいらしい子だった。

 懐かしさに混じって妙な感覚が胸をよぎった。ぼくは確かにりんご飴を夜店で買って、ひとみちゃんと一緒に食べたはずだ。にもかかわらず、その味をどうしても思い出すことができなかったのだ。

「どうかしたの?」

 麻衣がけげんそうにぼくの顔をのぞきこんでいた。ぼくはしかたなく「たぶん、そんなに甘くなかったと思う」とでまかせを答えた。

「じゃあ、食べたい」

 麻衣が子供のように無邪気な口調で答えると同時に、彼女のバッグから携帯の着信メロディが響いてきた。「ごめん、ちょっと待ってて」仕事の電話なのだろうか、ため息まじりで言い残すと、麻衣は人ごみを離れ神社の塀の方へ消えた。

 屋台のへりに正確に等間隔に並べられたりんご飴はまるで何かをあらわすしるしのようだった。もう一度りんご飴の味を思い出そうとしてみた。けれども味はおろか、その食感すらまったく蘇ってこなかった。遠い昔に一度食べたきりだから無理はない。そう思いなおそうとしたものの、さらにもっと幼い頃に駄菓子屋で買ってもらって食べたカステラはそのぱさぱさとした食感すらありありとくちびるに残っていることを考えるとどうも妙な話だ。

 何かがひっかかっていた。風邪をひいて、熱が下がったあとに残ることばで説明できない具合の悪さに似た気分だ。神社の塀にもたれて携帯を耳に当てている麻衣の姿を見るとはなしに視界の端でとらえながら、あいまいな記憶をたどってみる。

ひとみちゃんを夏祭りに誘ったのはぼくだ。内気で無口なひとみちゃんは子供なら誰でも喜ぶはずの華やかでにぎやかな場所が好きではないらしく、初めのうちあまり気乗りがしないようだった。けれどもぼくはあきらめずに誘い続けた。たぶん、ぼくは彼女のことが好きだったのだ。休み時間、いつも一人で本を読んでいて、話しかけても恥ずかしそうにうつむくだけのひとみちゃんと、何とかして仲よくなりたかった。冗談を言って笑いあえる仲になりたかったのだ。何度目かに誘ったとき、ひとみちゃんは、「お祭りって、りんご飴、売ってる?」と聞いてきた。本で初めて知ったりんご飴を、ずっと食べてみたいと思っていたそうだ。最終的に、「夜店のりんご飴を食べてすぐ帰るなら行ってもいい」との条件で一緒に行くことを了承してくれた。そして、当日、電柱の角を曲がったところで、ふだんはひっそりとした石だたみの道が光にあふれているのをまのあたりにして急に腰がひけたのか、やっぱり行きたくない、と言い出した。「りんご飴、食べたくないの?」そう聞くと、ひとみちゃんはしばらく黙ってうつむいた後、「食べたい。ここで待ってるから、買ってきて」と消え入るような声で答えた。しかたなく、彼女を路地で待たせて、ぼくは一人でりんご飴を買いに行ったのだ。

 毛玉のようにからまった記憶がだんだんとほどけていく。あの日のひとみちゃんはワンピースにサンダルだった。ワンピースは白で、サンダルは真っ赤だった。ちょうどこのりんご飴みたいに。そこまで思いだせているのに、どういうわけかひとみちゃんの顔はもやがかかったようにぼんやりかすんでいた。他のクラスメイト達の顔は皆はっきり覚えているのに、ひとみちゃんについては卒業アルバムの写真すら思い出せないのはどういうわけだろう。

著者

砂猫
砂猫
小説、映画、ベースギター、猫が好きです。
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