【文豪】

落下

 逃げるために死ぬことにした。飛び降りだ。今まさに落下している。

 本当に飛び降りでよかったのだろうか。今思うと、薬とか、溺死とか、ほかにもやり方はあったような気がする。焼身自殺にしなかったことだけは賢明な判断だろう。のどが焼け付いて苦しい思いをしながら、全身を焼かれる痛みとともに死ななければならないらしい。ブックオフで買った完全自殺マニュアルに書いてあった。

 飛び降りたことをこうも後悔しているのは、たぶん、死後の自分の評判だなんていう無意味なことへの関心を捨てきれなかったからだろう。まさか自分がそんなことを考える人間だったとは思いもしなかった。飛び降り自殺の死体はぐしゃぐしゃにつぶれて、内臓がやぶけて外へ露出するらしい。スプラッターが好きな自分は死体のグロテスクさを気に留めてはいないし、むしろ通行人への素晴らしいサプライズだと思うのだが、いかんせん今の若者は、いや若者に限らず世間というものは、とかく行儀が悪い。ぐしゃぐしゃの原型をとどめていない死体を面白がって、写真を撮ってネットにでも流すのだろう。「下校中キモイものみちゃったw」とか、「公共の場で内臓ぶちまける屑発見」とか。あの連中は何かあると人に言いふらさずにはいられないのだろうか。まったく嘆かわしい。

 しかも悪いことに、そうして撮られた写真はいつまでも残るのだ。一瞬の嘲笑なら我慢しよう。本来死体なんてものはいずれ朽ちてなくなるのだ。都市ではそうはいかないが、それでも保健所職員がきれいに処理してくれるだろう。しかしまぁ、写真とは!自分が死んでも恥ずかしさだけが生き残るらしい。

 ビルの中で男女が談笑していた。彼らは自分に気づいただろうか。見えたのは一瞬だったからよくわからないが、あれはたぶんレストランの窓際のテーブルだったのだろう。こんな賑やかなビルから飛び降りたのも後悔の原因かもしれない。次はせっせと仕事に打ち込む嫌に整然としたオフィスが見えた。こんな何の面白みもないばかりか、ただただ気が滅入るようなものばかりを見ながら落ちなければならないのだ。もう一度死に場所を選べるのなら人気のないところにしよう。サスペンスにあるような海に突き出た崖なんて最高だ。

 体が翻って向かいのビルが見えた。腰のねじりで方向を変えられるらしい。メガネは上に置いてきた。あちらで何が行われているのかはよく見えないが、それでいい。目を瞑って静かに落ちよう。

 目を瞑ると、今度はいたるところから騒々しい音が聞こえてきた。ヘリコプター、救急車、街頭演説。人工の音というのは恐ろしい。風が耳の奥を轟轟とたたいているにも関わらず、明瞭に聞こえてくる。耳栓をして飛び降りればよかったかもしれない。気圧の変化で耳が痛くなるのも少しくらいよく出来ただろう。

 結局、世間は死の瞬間まで自分を離しはしないわけだ。最期まで苦しませ続けるその気概あっぱれ。拍手。

 それにしてもいつになったらこの落下は果てるのだろう。気の遠くなるような思いがした。

著者

時雨薫
時雨薫
中央アジアに行きたい。

コメント & トラックバック

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  1. Rhett Butler

    時雨薫さんは、一人称の小説が多いようですね。やはり、書きやすいためですか? それとも、ほかに何か理由があって? すみません、ただの好奇心です。

  2. 時雨薫
    時雨薫

    「そんなこと言ったって、一人称しか書けないんだから仕方ないじゃないか」
     時雨薫は自分の作品につけられたコメントを見てつぶやいた。
     三人称で上手く書きたいという願望もないわけではなかった。一人称ばかりを選んでしまうのは、薫自身の自分と違う何かになりたいという欲求の、かすかなあらわれであった。
     それにしてもペンネームというのは便利だ。薫は自分の作品を投稿するたびにそう思わずにはいられない。感じやすい年頃の男の子や、幼年を懐かしむピアニストや、引っ込み思案の女子高生や、ときには自殺者に自己を仮託して書いても何も恥ずかしいところがないからだ。ペンネームを用いること自体、一つの仮託かもしれない。
    「試しに三人称で書いてみようかな」
     薫はポッキーを口にくわえると、慣れた手つきでキーボードを打ち始めた。

  3. 坂口 修治

    太宰治の様な雰囲気を感じました。

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