【文豪】

ケケ山の記 第一章2

「お父さんが呼んでいたみたいだけど、いいの?」

 暗い部屋のベッドの上に滑らかな光が差し込んでいる。クルルの母はベッドのふちに腰かけ、部屋の隅をせわしなく動くクルルを頬杖をついて見つめていた。クルルや旦那には寝ているようにと言われているが、今日のように容態が落ち着いている日にはどうしてもじっとしていられずに、部屋の中を歩き回ったり、止められている針仕事をしたりして過ごしていた。今も、クルルのポンチョに刺繍をしていたところらしい。

「この花瓶の水を変えてから」

 クルルが振り返りもせずそっけなく答えるので、気にしない様に意識の外へ遠ざけていた退屈が、低い雲のようにもくもくと心のうちに立ち込めてきた。

「お父さんが稽古つけてくれるんだって?」

「んだ、カプカフの儀が近いからって」

「おめも、もうそんな年か」

「んだ」

「じゃ、そろそろ彼女の一人くらいできてもいい年だない」

「そったがもんいるわけねぇばい」

 もしかすると好きな娘くらいはいるのかもしれない、クルルがあまり勢い込んで否定するので、すこし追求したいような気持が起こってくる。

「おい、クルル、早くこねぇが!」

 家の裏から大きな怒鳴り声が聞こえた。よほど待たされているらしい。猟犬を叱りつけるような声だ。

「はいっ、今行きます!」

 駆けていく息子の背中は、記憶の中のそれよりはほんの少しだけ大きくなっていたような気がした。

 

 父は熊のような目でクルルを見下ろした。これは手ひどくやられるぞ、クルルは唾をのんだ。

「普通のわっぱならこの年からするのは剣の稽古だけで十分なんだが、おめはその前にやんなきゃなんねことが多すぎる」

 あの熊のような目はもしかすると、怒りでなくてあきらめの表情なのかもしれない。父があまりに暗い調子で言うのでクルルはそう思わざるを得なかった。もしそうだとしたら娘のような腕と罵られるより悔しい。父はクルルを睨み付けたままいつまでも黙っている。

 もしかすると稽古なんつっといて、何をするか考えてなかったんでねぇべか?疑惑が頭をよぎる。

「クルル、俺はおめぐらいのとき何の稽古もしなかった。だが強かった。んだから、稽古ったて何をすりゃいいんだかわがんね。ましてやおめみたいな細い餓鬼、見たこともねんだで」

 父は大きなため息をついた。

「山籠もりでもさせるしかねんだべか?」

 山籠もりはできない、クルルは思った。病身の母を置いていくことになってしまう。粗雑な父に母の看護はできそうにない。

著者

時雨薫
時雨薫
中央アジアに行きたい。

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