【文豪】

奇妙な酔い方


 深酒した。週末の夜にそうなる癖が私にはある。そして、朦朧とした意識で一階のトイレに向かい、階段を降りる際に足を滑らせたのである。固く冷たい木の板に、頭と背中と腰を数度打ち付けながら転げ落ち、一階のフローリングで仰向けになった。不思議に痛みを感じなかったのは、アルコールがよほど体内に巡っているからだろう。とりあえず動けるようなので、私は何の事なしに、すぐ横のトイレに入り、しばらく便座に座った後、二階の寝室に戻ってそのまま布団に横たわった、と思う。
 飲み過ぎた翌朝は気怠いのが常だが、妙にすっきりと目覚めた。体も異様に軽い。違和感の中、いつもの習慣で朝一番のトイレへ向かうと、階段の下に何者かが倒れているのを見つけ、大変驚いた。そもそも私は一人暮らしなので家の中に他人がいる事が驚きであり、さらにその顔は私にそっくりなのである。もしかしたら私には、知らされぬ双子の兄弟が居て、昨夜に訪ねてきたが私が眠ってしまっていたので仕方なく一階の床で寝…… いや流石に無理があるな。とりあえず泥棒の類には見えないのでその肩を揺すって起こそうとした、が、それが出来なかった。私の手が彼の肩に触れられない。正確には、私の手が無いのである。そこでようやく気づく、私の体が無い。私の視界に、自身の肢体が全く映らない。どうやら私は透明人間になったらしい。現実にそんなことが起こるわけはないので、まだ酔っているのだろう。
 閑話休題、この倒れている人物は何者だろう。まじまじ観察すると、間抜けな表情だ。薄目で、口をだらしなく開け、片鼻から血が出て乾いている。メガネがずれてドリフのコントにでも出て来そうな小道具になっている。生え放題になった揉み上げとも頬髭とも分からない汚らしい無精髭が当人のズボラさを否応なく想像させる。惜しむらくも、明らかに私であった。己を客観視するというのはあまりやるものではない。髭くらい剃れよと、他人に対して臆面なく思っていたのがひどく恥ずかしい。が、まあいい、さしずめ昨夜に階段から転げ落ちた際に気絶して、今感じているこの意識はその魂が抜け出たものであるとか、そういう、よくある胡散臭い幽体離脱のお話なのだろう。つまり私は透明人間ではなく幽体とやらになっていたのだ。心霊現象だの超常現象だのというオカルトを、楽しみつつも冷笑して生きてきた私がそう考えるのもおかしな話だが。
 立ち尽くし(?)ながら、しばし我が身を見下ろして冷静になった。これから私はどうするべきなのだろう。私の肉体はどうなる? 落ち着きを取り戻すにつれて焦燥が出て来た。現今、状況は逼迫しているのではないか。このまま放っておけば一人暮らしである我が肉体はやがて腐って異臭を発し、近隣住民に発見されて、特殊清掃員の厄介になる。それはなんとしても回避したい。運が良ければ勤め先の人間が私の無断欠勤を不審に思って訪問する可能性もあるが、鍵屋を呼んでまで玄関の扉を開けるかというと、果たしてどうか。開けるかな。そうな気もする。
 腐れた体を衆目に晒すのも恥ずかしいが、そもそも、私は死にたくない。よく聞く幽体離脱の話であれば霊体が肉体に回帰するのが常だが、霊体が肉体に戻らなければそのまま絶命して件のような話題にならないだけとも考えられる。もしかしたら全ての人は何かの拍子に霊体となり、極稀に戻れる者が一定数あるという仕組みなのかもしれない。仮にそうであれば、死者というのは非常に難儀である。己の死後、周囲の言葉が聞こえるとしたら、私は空恐ろしい。きっと私と同じように、人々はこの男の亡骸を見て間抜けだのみすぼらしいだの惨めだのと口々に唱えるのではないか。口に出さずとも、いや、考えたくないな。
 腹に乗ってみたり、無い体を体当たりをしてみたり、日がな一日、肉体に戻る努力をしたが無駄だった。私の視界は肉体をすり抜け、肉体はどこまでも微動だにしない。日が暮れても照明をつけられないのですぐに真っ暗になった。途方に暮れても、どうしようもなく意識ははっきりしていた。
 それにしても奇妙な酔い方である。早く覚めて欲しい。

著者

やくたみ
やくたみ

コメント & トラックバック

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  1. Rhett Butler

    自分の容姿を客観的に酷評する場面が面白かったです。

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