【文豪】

50、43、そして35(24)


「たまにはおばちゃんの支那そば食べに帰っておいで」
 ありがとうございます、とユキオはいつものはにかんだ笑顔を見せた。
 そして栄のおばさんは落ち着きなくきょろきょろと何かを探している。
 おばさんは絹子を待っていた。
 手稲から戻ってきた絹子に清一郎が出発する日を教えたのだが、絹子は「そうですか」と答えただけだった。
 もしや最後まで清一郎と顔を合わせずに別れるつもりなのかと、おばさんはやきもきしたままこの日を迎えてしまった。

 雪がちらつく三月末のプラットフォームは、別れを惜しむ見送りの人々と旅立たんとする人々でごった返している。
 清一郎は東京へ、そしてユキオは留萌に出発する。
 わんわんと泣き続けるたか子に向かって、ユキオは「手紙書くね」とほほ笑んだ。
「いやになったら帰ってくればいいんだから。うちで働いたっていいんだから」
 たか子は何度も繰り返しては真っ赤になった鼻の下を片手でこすった。

 それまで清一郎は見送りに来た人々に丁寧な挨拶をしていたが、ひと段落するとやはり栄のおばさんに負けず劣らず落ち着かない様子である。
 函館行きの汽車がそろそろ到着する時刻でもあった。
 志づはユキオのマフラーを巻き直し、「留萌はロシアから風が吹くから」とぼそぼそ呟いた。

「ユキ」
「なあに」

 誰の目にも明らかにそわそわしていた清一郎であるが、突然怒ったように言うとユキオの細い腕をぐいと掴んだ。 
「おめえは俺と一緒に船に乗るんだ」

「ニシンなんかとらなくていい。おめえは俺と一緒に東京に行くんだ」
 ユキオはつぶらな瞳をぱちくりとさせていた。
 呆気にとられていたのは栄のおばさんやマサナだけではない。
 たか子は息をするのも忘れたかのように、二人をぼんやりと見つめていた。いつ終わるともしれない涙はいつしか止まっている。

「馬鹿こくでない!今までさんざん人様に迷惑かけてたくせに、まともにユキオちゃんの面倒見られるはずねえっしょ!」
 一番先に我に返ったのは志づであった。
「わかってるよ!」
 姉をさえぎり、清一郎はユキオの腕を掴んだ手に力を込めた。
「わかってるけど、俺はこいつと一緒に行くんだ。ちゃんと学校出さして飯も食わして、俺がそうしてえんだよ。俺はちゃんとした、こいつの親父になりてえんだよ」
 頼む、と言うと清一郎は雪と煤にまみれたプラットフォームに正座し、姉達に向かって頭を下げた。

 立ちつくす志づの前で菊池がひざまずき、清一郎の隣で深々と頭を下げた。
 たか子は唇をかみしめ、菊池の背中を目で追いながら「お願いします」と煤けた雪におでこをこすり付けて叫んでいた。
 真っ白いタイツに汚れた雪が染み込んでゆくが、たか子は鼻をすすりながらうずくまったままである。
「たかちゃん、やめてよ。なして」
「わかんない、わかんないけど。だって清さん帰ってきてくれたもん!だから大丈夫だって、それしか」
 再びむせび泣く娘を見つめ、清水屋の主人はマサナ達に無言で頭を垂れた。
 マサナは土下座する人々を見下ろしていた。誰ひとり顔を上げようとはしなかった。
 遠くで汽笛が鳴った。

  硬直しきったユキオの肩を叩き、マサナは優しく声をかけた。 
「ユキオ君はどうする」
 しばしの沈黙と葛藤の後、ユキオの口から自然と言葉がもれていた。いつもと変わらない静かな声であった。 
「行く。清さんと一緒に、東京に行く」
「わかった」

「お父さんまで何言ってるの!」
 志づの涙まじりの声が、一瞬だけ清一郎の瞳の奥を刺激した。
 だが清一郎には誰が何と言おうとも、決して譲れないものがあった。
 マサナは気付く。本来の力強い、何にも屈しない心を持った清一郎の顔に戻っている。たか子の言うとおり、きっと大丈夫だ。
 清一郎はうなずくマサナに向かって「姉さんをお願いします」と頭を下げた。
 函館行きの列車が軋む音を立て、煙と雪を吹き上げながらごとりと停車した。

 清一郎はユキオの手を引き、先陣をきって汽車に乗り込んだ。
 後ろからなだれ込む客に押し流されそうになり、昇降扉に手をかけながら清一郎は小鼻を膨らませた。
 急かすような汽笛や、せわしない駅員の声を一掃するかのごとく、得意の胴間声をプラットフォーム中に響き渡らせた。
「絹子!隠れてねえで顔見せろ!早くしねえと汽車が出ちまうだろうが!」

 清一郎の怒声に身を震わせ、柱の陰から思わず顔をのぞかせた絹子がいた。
 絹子を見つけ、栄のおばさんはようやくほっとした笑顔を見せた。
「絹ちゃん!こっち!」
 けれども絹子は柱から一向に動こうとはしなかった。
 絹子は流れる客にもみくちゃにされながらも、涙を浮かべてぶるぶると首を振り続けた。

「ごめんなさい、本当はこっそり見送るつもりだったの」
 蚊の鳴く声は、当然ながら清一郎に届いていない。
「いいから早く乗れ!汽車が出る!」
 けれども客の波が引くと同時に、汽車は無情にも動きだしていた。
「絹子さん!一緒に行こう!」
 ユキオも必死の形相で呼びかけるが、絹子はふわりとほほ笑み、二人に向かって胸の辺りで片手を振るだけだった。

「手を、こっちに!」
 ゆるゆると離れていく最後尾のデッキから差し伸べられた手は、マサナのものだった。
 その手も次第に遠ざかり始め、絹子は弾かれたようにその手に追いすがり、必死でしがみついた。
 二人の視線がぶつかり、マサナは力強くうなずいた。この人もきっと大丈夫だ。絹子の瞳も、清一郎と同じ光を宿していた。
 居合わせた客達の力を借りながら最後の乗客を引き上げ、マサナは絹子を抱えデッキに倒れ込む。
 志づは青ざめきった表情で「お父さん早く降りて!」と叫び続けていた。

「俺はついでに留萌に行ってくるから」
 絹子を抱えたまま座り込むマサナの声が、志づ達に届いたかどうかはわからない。
 だが志づはいつの間にか、菊池達と同じように汽車に向かって手を振っていた。

「早く行きなさい。二人が待ってる」
 絹子を立ち上がらせ、マサナはくいと顎で車両を指し示した。
 絹子は「行ってきます」と小さく頭を下げ、清一郎達に向かって歩き出した。
 人波に押し返されながらも絹子は一つまた一つと、車両を進んでいく。

「絹子!こっちだ!」
 清一郎の声がした。
 乗客に埋もれながら絹子は必死で片手を挙げる。
 互いに挙げられた手を目指して、二人は一心不乱に濁流を泳いでいた。
 気がつけば清一郎も絹子も、汗だくの額を突き合わせて笑っていた。

***

「これだけは三人で見ねえと」
 首から下げた懐中時計をかぱりと開け、清一郎はにやりと笑う。
 中に収まった三角の薬紙に目を落とし、絹子は軽く息を飲んだ。
 鈍い色ではあったが、黄金色の粒が薄紙の向こうにあった。
 清一郎もユキオも、満面の笑顔だった。

「嘉一さんは、なかったって。だからそれでいいのよね」
 涙ぐむ絹子の声に、怒りはなかった。
 今は嘉一に静寂な時を与えたい。世に伝えられない真実が存在する時もある。それは清一郎もユキオも同じ気持ちだった。
 清一郎は相づちを打つと、目の前にある低い天井を仰いだ。

「まあ、薬だからな。皆で飲んじまうか」
「嘘でしょう」
「薬だって言ったべや?」

著者

渡部ひのり
時代劇もファンタジーもBLも恋愛物も刑事ものも、なんでも好きです。面白いものに垣根はありませぬを体現できるようになれたらいいなと思っています。
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