【文豪】

50、43、そして35(25) ~了~


 東京で新たな一歩を踏み出した三人のその後は山あり谷ありであったが、笑顔、笑顔の日々であった。
 清一郎は金型を作る町工場で数年働いた後、焼結炉を製造する会社を設立した。おりしも日本は重工業による戦後復興が波に乗り、清一郎はその波に押されながら順調に業績を伸ばしていった。
 誰かに説明を請われれば、「部品を作るカマだ」と清一郎は忍耐を駆使して「カマ」に対する愛情と情熱を人々に説いた。

 機関士を辞めても「カマ」から離れられないのだと、清一郎は照れくさそうに笑っていた。
 ちなみに清一郎が没する数年前には、屋敷の庭先に趣味と研究と実益を兼ね備えた茶碗用の窯とピザ用の窯をあつらえるまでになっていた。
 火を見ないことには落ち着かないのは、死ぬまで変わらなかったようである。

 ユキオは大学を卒業すると清一郎を支えるべく工場で働き始め、やがて海外に販路を拡大するに至った。
 絹子やユキオが清一郎を支えたのはもちろんであったが、国鉄を辞めた菊池が東京で骨を埋めるつもりで、はるばる旭川からやってきた。
 そして長年の経験を活かして工場の責任者となり、会社を大きくするのに貢献した。
 清一郎の焼結炉によって製造された部品が新幹線の一部になり、菊池の喜びもひとしおであった。

 昭和四十年代になると従業員は百人を超え、清一郎は郊外に立派な邸宅を構えるまでになっていた。
 彼らに子どもはいなかったが、工場の少年達が数人下宿しており、屋敷はいつも賑やかであった。
 成人した姪のタミ子達も上京後、結婚するまで清一郎の家で暮らしていた。
 血の気の多い清一郎は年頃の姪達としばしば衝突することもあったが、「預かったからにはうちからきちんと嫁に出さなきゃ、マサさんに顔向けできねえ」といっぱしの父親のような顔で絹子に語るのであった。
 そんな清一郎達を見届け、菊池は天寿を全うし九十歳でこの世を去った。

 マサナと志づは数年おきに道内を転勤した後、北陸にある志づの故郷に移り住んだ。
 娘の嫁入りのたびに上京しては、清一郎の屋敷を誇らしげに眺めていた。
 栄のおばさんはしばらくしてから店をラーメン専門店に替えて旭川駅前の市場に移し、やはり菊池と同じくらい長生きした。
 区画整理と共に栄町の文字は地図から消えたが、おばさんの店は清一郎が旭川にいた頃と変わらない味を提供し続けた。
 一方清水屋のたか子は高校を卒業した後父の家業を手伝っていたが、やがて巡業中の力士に見初められ東京で女将業に励むこととなる。

***

「お義父さん、清さん」
 清一郎はベッドの上で朦朧としていたが、雪生の柔らかい声に呼び戻され「ああ」と真っ白になった頭をかすかに動かした。
「この薬のせいだね、嫌な夢を見るんだ。痛くてもいいから、もう打たないでくれって先生に言ってくれるかい」
「駄目ですよ」
「まあ、いい夢も見る。みんなが呼びに来るんだ。綺麗なオーロラの下で、でもそこは暖かいんだ」
 みんなとは誰か、雪生は聞かなかった。
 清一郎の枕元に座っていた絹子が「お花のお水を取り替えてきましょうね」と言いつつ立ちあがった。
 一度だけ鼻をすすり、絹子は廊下に消えていった。

「何かいりますか。果物むきましょうか」
 雪生の妻が清一郎の顔をのぞき込み、にっこりとほほ笑んだ。
「いや、水をもらえるかね」
 おじいちゃんどうぞ、と八才になる雪生の息子が母親からコップを受け取り、清一郎の手に自分の手を添えた。

 半分ほど飲むと、清一郎は孫の名を呼び「おなかいっぱい」とコップを返した。
 おばあちゃんのお手伝いしましょうね、と妻子は廊下に姿を消した。
 病室は、雪生と清一郎の二人だけになった。

 二人同士の長い沈黙も、雪生には心地よいものだった。言葉の無い空間を分け合うだけで、僕達は親子だ、と思えた。
 親子でひたすら駆け抜けた数十年であった。

 窓辺で晴天を見上げる雪生は、清一郎のかすれる声を聞いた。無意識に思いはせていた遠い場所から、海を越えて東京に引き戻される。 
「帰ったら俺の机の、一番下の引き出しを見てくれないか。ユキならわかるだろう?頼んだよ」
 ユキ、と呼ばれたのは久しぶりだった。胸がずきりと痛み、ユキオは遠くない別れが近づいていることを悟った。
「はい」
 日に日に灯し火の勢いは衰えていた。清一郎の儚い笑顔に、ユキオは動揺を隠し飄々とした笑顔を返す。
 寝る、と清一郎は言うと軽く瞼を閉じながら、戻ってきた孫の小さな手を嬉しそうに握りしめていた。

 病院から戻ると、ユキオは清一郎の書斎でぼんやりと時間をつぶしていた。
 何度か息子がドア向こうで自分を呼ぶ声がしたが、母親と一言二言交わすと息子はしぶしぶ階下に降りていった。

***

 真新しいダイヤル錠が付けられた粗末な木箱を机に置き、ユキオは「まだあったのか」と驚いていた。
 目にするのは数十年ぶりだった。
 光沢を放つ舶来品の重厚な家具に囲まれた書斎において、古ぼけた箱だけが異質だった。

 ご丁寧に、父の嘉一がそうしたように清一郎の言葉が木箱の上に貼り付けられていた。
「三つ目を探して下さい。聡明なあなたならわかるでしょう。その時全てが元に戻ります。あなたにようやくお返しする時がきました」

 元に戻るって、何が元で、いつに戻れるんだ?
 開けても僕達はどこにも戻れないんだよ、清さん。樺太には、みんながいたあの日には帰れないんだ。
 病を得てから、清一郎はぽつりぽつりと「樺太」の話をするようになった。意識していたわけではないが、それまで二人が懐かしい故郷について語り合うことは皆無だった。
 帰れるものなら、もう一度帰りたいなあ、と清一郎は病室で寂しそうに笑っていた。
 ユキオは二人で見上げた凍える夜を、天女の衣に包まれた美しい空の様子を、熱を帯びた瞼の裏に映し出していた。

「50、43、そして35だ」

 この箱を開けてしまえば、僕達の旅が終わってしまう。清さんが一人で先に、帰ってしまう。僕達はまだ旅の途中なのに、それなのにあなたは一人先に帰ると言うのか。
 だから清さんには悪いけど、もう少しこのままにしておきたい。
 冷たいダイヤル錠を握りしめ、ユキオは一人声を殺して泣いていた。

 その夜清一郎は絹子に看取られ、眠るように息を引き取った。

著者

渡部ひのり
時代劇もファンタジーもBLも恋愛物も刑事ものも、なんでも好きです。面白いものに垣根はありませぬを体現できるようになれたらいいなと思っています。

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