【文豪】

泣きぼくろ 二章2


 
 私たちは枯れた芝生の上に倒れたままでいた。
 若宮さんはエビみたいに体を丸めた私をまだしっかりと抱き留めている。彼女の匂い、温もりが忘れかけていた現実を呼び覚ます。
 心臓の鼓動が背中を通して伝わってきた。弱っていた私の心臓もそれに共鳴するように、活発に動き始める。血液が体中を駆け巡り、手足の先まで温もり始めた。

「もう大丈夫。どこにも行かないよ」
 私は言った。
 若宮さんはゆっくりと腕をほどいた。
 ゴロリと仰向けになると、さっきまでの手を伸ばせは届きそうだつた低い空が、今は随分と高いところに見える。
 隣では若宮さんがまだ大きな息をしていた。彼女が引き留めてくれなければ、私はあの煙突からあがる煙のように、空に溶けてしまったのかもしれない。

 しかし、彼女はどうしてここに居るのだろう。ジュンが倒れたあの日を境に、壁が取り除かれたように、突然彼女は私の視界に入ってきた。
 病院の帰り、学校での別れ際に彼女の言った言葉を思い出した。

「私たち、ずっと一緒って言ったよね。でも私にはまったく記憶がないの」
 考えてみたらおかしな話だ。彼女ほどの存在感のある人と、保育園から今まで一緒の場所に通っていて、気づかないなんてことがあるだろうか。
 私が若宮さんの存在を初めて認識したのは高校に入ってからだ。同じ一年生にすごい人がいる。モデルみたいにすらっとした美人で、おまけにスポーツ万能なの。クラスメイトの一人が興奮気味に話していたのが、彼女の名前を耳にした最初だった。

「あなたはまるでそのことに気づかずにいた。でも西沢さんは知っていたのよ」
「ジュンが? でもジュンの口からあなたのことを聞いたことは一度もないわ」
「あなたの前で、私の話題をしたくなかったんだと思う」
 私は病院の待合室で抱いた疑問に思い当たった。
「なぜジュンがそんなことをしなければならないの?」
「私があなたに特別な感情を抱いていることを知っていたんでしょう」
 彼女は私の目をまっすぐに見つめた。
「西沢さんが、現れるまで、あなたは私のたったひとりの友達だった」
「何を言ってるの?意味がわからない。いくら小さい頃のことでもそんなことを忘れるはずないでしょ」
「じゃ、お母さんのことは覚えている? お母さんが交通事故で亡くなったことは?」
 私は答えに詰まった。
 母が事故で死んだことは父から聞いて知っていた。しかし記憶があるのかと言えば、答えは否だ。まだ幼かったから、よく覚えていないだけだと、そう思い込んでいた。

 しかし、あらためて振り返ってみると、自分には母にまつわる記憶がまるで無い。
 母がどんな声で私に話しかけたのかも、いや顔だって写真の顔しか知らないのだ。
 私は慄然とした。記憶がすっぽりと抜け落ちているのだろうか。だとしたら、なぜ今まで疑問に思わなかったのだろう。それとも私には最初から母なんか居なかったのだろうか。
「あなたは私のお母さんのことを知っているの?」
 私は恐る恐る聞いた。きっとその扉を開けたら、もう戻れないかもしれないという予感がする。
「きれいで優しい人だった。私とあなたはいつも最後まで保育園に居残っていたの。お迎えが遅かったからね。そして、たいていはあなたのお母さんが先にやってくる。そのときのあなたはこれ以上、嬉しいことはないって顔をしていたわ。お母さんはあなたを見つけると、ギュッと抱きしめて、頬ずりするの。私はそれがとてもうらやましかった」
 私にはまるで記憶の無い話だった。しかし、彼女が作り話をしているとは到底思えない。

「私の母親は自分の子供を愛せない人だったの。ネグレクト、知っている?」
 初めて聞く言葉だった。
「育児放棄っていうのかな。母は子供の世話をなにもせず、お酒ばかり飲んでいたわ。私はいつも垢じみた服を着せられて、酔った母に叩かれないかとビクビクしていた子供だった。父がいたからそこまで酷いことにはならなかったけれど、それでも母と二人で家に居るのはとても怖かった。そんなんだから、保育園でも他の子供とコミュニケーションが取れなくて、いつもひとりだった……でもね。あなたとふたりでお迎えを待つ時間だけは別だった。別に何かを話すわけでもないの。ふたりで絵本を見たり、ぬいぐるみで遊んだりするだけなんだけど、あなたが傍に居てくれて、時々、ふと顔をあげて微笑んでくれるの。そうすると、幸せな気持ちになれた」
「ごめんなさい。やっぱり思い出せない……」
 記憶の底をまさぐったところで、なにひとつ掴み取れるものはなかった。もどかしくて涙がでた。若宮さんは人差し指でその涙をなぞると、大丈夫だよという表情で微笑んだ。

「いつだったかな。私たちはいつものように迎えを待っていた。その日はとても憂鬱だった。父が仕事の都合で、来ることができず、母が来ることになっていたから。私はあなたのお母さんがずっと来なければいいと願った。いつまでもこの時間が続けばいいってね。でもあなたのお母さんはやって来た。あなたは私にさよならをすると、お母さんの胸に飛び込んでいった。そしてお母さんに手を引いてもらって歩き出した。私はとても孤独で不安だった。だから心の中で叫んだの『お願い。行かないで、一人にしないでって』、そしたらね。奇跡が起きたの」
「奇跡?」
「ええ奇跡。あなたは突然振り返ると、私の方に向かって走ってきたの。それから私の手にこれを握らせたの」
 若宮さんはそういうと、スカートのポケットから、何かを取りだして私の手のひらにのせた。さくら貝だった。
 手のひらに置かれた小さな薄紅色の貝殻を私はじっと見つめた。何の変哲も無い貝殻だが、見覚えがあった。私はそれを固く握りしめて、目を閉じた。

 手のひらの肉に食い込む感触が、歳月を超えて私の記憶の一点に結びついた。

 そうだ、声を聴いたんだ。振り返ると、青白い顔をした女の子が膝を抱えて震えていた。それがとても可哀想で、私は自分の宝物を彼女のために置いていこうと思った。
 母と海に行ったときに見つけたさくら貝。その子はそれをじっと見つめてから、ぎゅっと握りしめて私を見上げた。私はたまらなくなって、彼女の頭をかき抱いた。

 散り散りになった記憶の欠片が、いま私に向かって、降りそそいでくる。
「さっちゃん……」
 思わず口にした呼び名に、若宮さんは涙で顔をくしゃくしゃにして、何度も頷いた。

つづく

 

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次回に期待・・・もう少し普通良い文章最高! 平均評価: 5.00 (投票者1人)
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コメント 1件のコメント

コメント & トラックバック

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  1. kinkan

    引き込まれる文章で、続きがつい気になってしまいました(*・∀・)

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