【文豪】

50、43、そして35(21)


 夜汽車の窓に映る自分の顔にいい加減飽き飽きする、うっとおしいったらない。世界一不幸だといわんばかりのくたびれた顔つきの女は、いつになったら消えてくれるのだろう。
 絹子は冷たい窓に頭を預けたまま瞼を閉じる。このまま寄りかかっていたら窓と一緒に凍りつきそうであったが、むしろ興奮を冷ますには丁度よいとさえ思えた。何より、ガラスに映った貧相な女の顔を見ずにすむ。

 目を閉じれば封筒の中から飛びだした文字達が、ぱらぱらと雨のように降り注いでくる。便せんいっぱいに書かれた嘉一の文字は意外にもわずかに丸みを帯び、繊細さが印象的であった。
 今頃清一郎も腹をくくって手紙を読んでいるのだろうか。
 どうかあなた自身を許してあげてください。嘉一さんとあなたは違うと知っているなら、気付いてください。存在しない罪に苦しむのではなく、あなたはいつでも前に進めるのだと。

 手紙なんてなくたって、私はわかっていたのに。そんなものなどなくてもいいから、あなたの声で伝えてほしかった。
 私も同じです。愛おしい人でありました。
 だから今もまだ、こんなに悲しいのです。忘れることなどできないのです。

***

 佐藤清一郎殿、伊藤絹子殿、千葉雪生殿

 大泊であなたがたと過ごした日々がつい昨日の出来事のようによみがえります。遠い山々に連なる異国との境界で、儚い夢を見続けた年月でございました。
 いつまでも私達親子は、新しい土地で平凡ながらも満たされた日々を送るであろうと信じた、愚かな月日でもございました。
 今日もまた美しい樺太の景色を思い浮かべながら、私は残された幸せな時を過ごしております。
 感謝を込めて駄文ながらお別れのご挨拶をしたためることと相成りました。
 あなたがたの貴重な時間を私めのために無駄にしてしまうことをお許しください。何よりも私の空白の時間について一切詮索せずにいてくださった清一郎殿に心より感謝しております。

 絹子様よりいただいた鍵の偶然に、私の心は喜びと驚きに震えました。敷香、旭川と私達は旅を続け、今こそ自由になったあなたがたははたしてどこへ行くのでしょう。
 あなたがたが羽ばたき行きつく先を、いつまでも見ていたい気もいたします。けれど私は行かねばなりません。これからは遠き地の果てより見守らせていただきたいと思います。

 私はあなたがたと別れた後、豊原にて終戦を迎えました。私共の力及ばず、豊原には内地に帰還できずにいる人々が大勢おりました。
 ソ連軍が入城して数日私は豊原に留まっておりましたが、元の職場に復帰するようにとの命令があり敷香へ戻ると、家は爆撃を受けて跡形もなくなっていました。幸い駅舎は無事でしたので戻ってきた他の鉄道員と雨露をしのいでおりました。
 その頃の私は地獄の中を這い回ったというわけでもなく、漠然とではありましたが希望を持っていました。遠からずあなた達と再び会いまみえるであろうと、当時の私は実に呑気な男でありました。

 ある日ソ連の兵隊達がやってきて、私に敷香の案内役をしてほしいと言いました。
 敷香に残っていた鉄道員の中で最も敷香に滞在期間が長かったのは私でしたから、何の疑問も持たず毎日のように敷香を案内して回り、兵隊達の命ずるままに広大な敷香の隅から隅まで文字通り駆け回っていたのです。
 その調査も二週間ほどかけて行われたと記憶しておりますが、それまで観光でもしているかのようにのんびりとしていた兵隊、というか少し階級の高い男がある日突然人が変わったような顔つきになり、「金は何処で出るのか」と私に尋ねました。

 私は鉄道員です、山師でも鉱山夫でもない私に、どうしてそのようなものがわかるでしょう。わからないと答える私を帰そうとはせず、ソ連軍は私を軟禁して終わりのない尋問を繰り返しました。
 尋問が終わると決まった部屋に帰され、わずかな眠りにつくのが日課となりつつありました。

 当初はソ連軍の見当違いな質問の数々にうんざりしていましたが、真面目に数えていたはずの日付もとうとうわからなくなった頃です。ある朝同室の日本人男性が首を吊って死んでいました。その部屋にいたのは私と亡くなった男性、そして三上でした。亡くなった男性は拓殖銀行の行員だったと記憶しております。

 正直私は、その男性をうらやましいと思いました。ここで生きている限り、私は輪っかの上をぐるりと回る一日を過ごすほかなかったからです。
 私の足元にある輪っかには切れ目がなく、ぐるぐると同じ場所を回り続けることの方がはるかに恐ろしかったのです。
「馬鹿な奴だ。嘘でもなんでもいいから、いくらでも生き延びる方法があったってのによ」
 死んだ人から目をそらさず、三上は言いました。一方私は、亡くなった男性に対する悲哀よりも恐怖心が凌駕しておりましたので、返答する余裕など持ち合わせておらず瀕死の鳥の鳴き声のような、珍妙な呼吸を繰り返していたのを覚えています。
 同時に今まで意識する機会のなかった「死」というものを、我がことのように感じた瞬間でもありました。

「あんたもこいつみたいに惨めな死に方するのかい。ロスケにひと泡ふかせてやりてえとは思わねえのか」 
 あからさまに興奮状態の私とは違い、三上の落ち着きぶりは見事なものでした。
「あんた、金鉱探しに駆り出されたんだろう」
「私が知るわけないでしょう」
「あるって言やあいいんだよ。それだけであいつらは納得する」
「ありもしないものを、あると?そんなことをしたら、殺されるに決まっている」
「あいつらは馬鹿だ。出るわけねえんだ。でもな、金は出るんだよ。言ってる意味わかるか?」

 ここだけを読むと、三上の言葉は悪魔のささやきのように感じられるでしょう。けれど彼の言葉は、死んだ行員に半ば引きずられかけていた私の心をを揺り動かしました。言いかえれば、あの時私は三上に救われ、結果としてあなたがたと再開することができたのです。
 彼はおそらく悪人と呼べる部類の人間でしょう。ある種の嫌悪感を抱かせる人間であることは否めません。けれどあの部屋で二人語り合った時、私達の目的は同じでした。
 あのようなろくでもない男を、ただの一度も憎むことがなかったのは事実であります。途絶えそうになる生への執着心を呼び起こしてくれたのは、他でもない三上だったからです。

 次の日、私はためらいながらもとうとう一つの結論を導き出しました。すなわち、彼らに殺されないための言葉を紡ぎ出したのです。
「敷香山(しすかさん)です。地形的に北樺太の金脈に繋がっていると思われます」と私は重々しく言いました。もちろんこれは、途方もない偽りでありました。
 そこから私達は破滅に向かっていたのです、苦し紛れの、私の愚かな言葉によって。


著者

渡部ひのり
時代劇もファンタジーもBLも恋愛物も刑事ものも、なんでも好きです。面白いものに垣根はありませぬを体現できるようになれたらいいなと思っています。
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