【文豪】

50、43、そして35(20)


 駅から遠ざかる汽笛の音に清一郎が気付かぬはずもなかった。けれど清一郎はその音に聞こえないふりをした。
 もしかしたら気が変わってまだ駅にいるかもしれない。あるいはマサナが彼女を説得してくれたかもしれない。
 思えば日暮れ時から藍色の空に変わった今も走りどおしだ。
 徐々に重くなる足を引きずりやっとのことでプラットフォームに出ると、灯りの下で汽車が去った方向を見つめるマサナがいた。
 絶え間ない雪が外灯の下では一段と優しい姿を見せ、ふわふわと舞っていた。

「絹子は」
「あの人は前に進みたかったんだ、だからユキオ君に会いに来た。全部あの人が決めたことだ」
 不器用な人間が二人で生きていくのは難しすぎただけ、とマサナは自分を睨み付ける清一郎の赤い目を悲しく思った。
「あんた達は俺とあいつを引き離したくてたまらんかったもんな。いい機会だって、ここから追い出したんだべ?」
 マサナは何も答えず、清一郎から放たれる怒りを一身に浴び続けた。

「して、どうする。追いかけるか」
「すまして他人事みたいに言わないでくれ」
「答えになってないな。そうやっていつまでも決められないなら、何も変わらない」
 そろそろ拳が飛んでくるかもしれない、とマサナは怒りのあまり歯をきしませる清一郎と向き合ったまま、沈黙の時は続いていた。
 ユキオが改札をくぐると、雪をうっすら積もらせた男が二人睨み合っていた。

 その時、管理局からマサナを呼びにやって来る者がいた。
「東京から電話が」
「すまんかったね、今行く」 
 マサナは足元の雪を軽く蹴りあげると、立ち尽くす清一郎を残して男の後を追った。

 ユキオは動こうとしない清一郎に近寄り、半分凍りかけた袖をつかんでいた。
「清さん、違うんだよ」
「何が違うんだ?マサさんは鬼だ。あんなえらい目にあったってのに女一人放り出して」
「マサさんは僕と絹子さんを助けてくれたんだ。本当だったら僕らも、進駐軍に連れていかれてたかもしれないんだよ、だけどマサさんが、東京の先生にかけ合うからって」

「お前らはなんも悪くねえだろう。なして進駐軍が」
「お父さんが三上と関係あるから、話を聞きたいって絹子さんと僕に。でも絶対許さないってマサさんが」
 ユキオの両目から涙がこぼれ落ち、清一郎は慌ててユキオの肩を抱きしめる。
 あらためてユキオの顔をまじまじと眺めると、腫れた目の周りや口元の傷が痛々しかった。
 やっと清一郎に会えた。話したいことがたくさんあったはずなのに、何も言葉が出てこない。
「ごめんな。ごめんな」
 清一郎の優しい声を聞き、ようやく安堵感をかみしめるユキオの号泣はいつまでも止まらなかった。

***

 管理局に戻ると、受話器に向かって開口一番マサナは不機嫌に言い放つ。
「お久しぶり早々にご迷惑を」
 形ばかりの謝罪であると、先方は電話越しに苦笑していた。
「勝手に私の名前を出されたら、こっちだって知らんぷりもできんだろう。ご家族は元気にしてるか」
「おかげさまで、デレッキで男一人倒せるくらいには」
「世話になっている分際で、随分とふてぶてしいじゃないか」
 けれどマサナは慇懃無礼な態度をあらためようとはせず、容赦なく相手にたたみかける。

「三上のような人間は、あとどれくらいお抱えですかね?人の主義や思想は自由です。ですがこれ以上身内に害を及ぼすようであれば、いくら先生の手駒といえども無視するわけにはいきませんよ」
「千葉君のことは残念だった。私も心が痛い」
「だったらなして三上なんぞをけしかけたんです、嘉一さんを追いつめて死なせる為ですか。あの人は理不尽なものに屈したりしない。あの人はそういう人でした」
 果たして自分の言葉は、どれだけこの男に響くのだろう。電話の向こうでうすら笑いを浮かべているのだろうか、とマサナは攻撃的な意識を取り払うつもりはなかった。

「けしかけたのは私じゃない。だがね、復員した人間のはけ口も必要なんだよ。彼らも好きでああなったわけじゃない、生き延びる道が他になかったんだ」
「あなたのなさりようは、ゾルゲ達と何ら変わりはない。そしてこのような世の中になってもまだ、あなたがたが何をしたいのか全くもって理解不能です」
「滅多なことは口にするものではないよ」
 マサナがぴしゃりと言うと、男の乾いた声がわずかに動揺を帯びていた。

「残念ながら、あなたがたの思い通りに世は流れません。人は自由です、あなたの愚かな駒もいつかそれに気付くはず」
「予言者のつもりかね」
「ごく普通の一般論です」
 マサナの口調から刺々しさは消えなかったが、電話の奥から懐かしむ声が聞こえた。
「昔から君の方がはるかに優秀だった。あの時私が君に代わっていなければ、今の自分はなかったかもしれない。今からでも遅くはないんじゃないか。東京に来たらどうだ」
「二十歳を過ぎればただの人です。私は鉄道員が性に合っています」
 扉の外でユキオと清一郎は会話の断片を聞きながら、あのようにマサナが辛辣な言葉を吐くのは珍しいことだとそれぞれに思っていた。
 しばらくして、マサナの声が聞こえなくなった。二人は顔を見合わせ、どちらともなく扉を開けた。

「マサさん、今の人が先生なのか」
 おずおずと声をかける清一郎に振り向き、マサナは苦い笑みをもらした。
「君達が気にする必要はない。昔の、郷里の先輩だ。ある方の秘書をしていた。もっともその方も既に鬼籍に入らさった。そのせいであのような俗物が先生などと呼ばれ幅を利かせるようになってしまった」
 マサナが先生に好意的でないのは明らかであった。それでもユキオ達の為に交渉せざるを得なかったマサナの心情はいかばかりであったかと、清一郎はうなだれていた。

「二度と三上は君達の前に現れないと思うよ。飼い主に釘を刺しておいたから」
「なしてマサさんがそったら人と知り合いなんだ。そもそも三上は何なんだべ」
 困惑する清一郎とは正反対に、ユキオはおぼろげながらその正体をつかみ始めていた。
 ソ連帰りの人達が、ただ日本に帰してもらえるわけがない。巧妙ながらも三上もそういった人間なのだろう。だけど、じゃあ、お父さんは。
 暗い顔をしてうつむくユキオの心中を察したマサナは、その小さな肩をぽんぽんと叩く。
「戦時中も三上のような人間は少なからず存在した。三上が本当にソ連に服従していたかどうかは疑問だが、あの男が嘉一さんにこだわっていたのもおそらく」

「金」
 ユキオがぽつりとつぶやき、大人達は黙って無意識に瞬きをしていた。
「お父さんの箱に金が入ってるかもしれないって、三上が言ってた」
 何のことやら、と首をかしげる清一郎であったが、マサナは「ふーん」と言うと帰り支度を始める。
「固いものが入ってる音がしたね。箱はどこに」
「志づおばさんに預けた」

 コートに袖を通すと、マサナはすたすたと扉に向かって歩き出す。このまま終わらせてはいけない。
 嘉一が何を残したのか自分も知りたかった。そして何よりも嘉一が命を絶った理由が、マサナの心の奥底に黒々としたタールのように張り付いたままだった。
「清一郎君。わかってるね、君達があの箱を開けるんだ。手紙を読みなさい」

著者

渡部ひのり
時代劇もファンタジーもBLも恋愛物も刑事ものも、なんでも好きです。面白いものに垣根はありませぬを体現できるようになれたらいいなと思っています。

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