【文豪】

トロイメライの春 一

 そちらにも春は訪れましたか?

 今年、私はウィーンで20回目の春を迎えました。春といってもウィーンは高地で、かつ北海道よりも北にあるのですから、まだまだ2月のような寒さです。それでも気温は日毎に上がっていて、若葉が萌えいで鳥の囀る生命の季節が、一歩、また一歩と私のもとへ向かって来ていることが感じられます。

 今朝、私が花瓶に活けていた桜が花を咲かせました。冬の間に庭の木から折った枝を部屋に移したものなのですが、薪ストーブの暖かさでも、その美しい姿を見せてくれました。その花を見ているうちに、ふと貴方のことを思い出して、この手紙を書くに至ったのです。

 お元気ですか?

 貴方と最後に会ったのは一昨年の演奏会でだったかしら?もう何十年も会っていないような気がします。貴方は今、何処で何をしているのでしょう。貴方のことだからきっと上手くやっているのだと思います。

 それにしても、時間の感覚というのは本当に曖昧なものですね。貴方と別れてからの月日だけが曖昧なわけではないのです。私がウィーンに来たのはつい昨日のことのようですが、このウィーンでの生活は何百年、何千年の気の遠くなるような昔から続いている気がします。こういった矛盾が、何の問題もなく意識の中に溶け込んでしまうのです。私が、牧羊神の唄が聞こえるような欧州の空気の中に生活しているからなのでしょうか。

 お迎えが近くなった老人は、幼い日のことも、今朝のことも、まるでついさっき起こったことのように話すといいます。きっと、それと同じことなのでしょう。この地には時間などという概念は存在しなくて、幼い日のことも、今朝のことも、全て、一つの平面な絵画の中のこと。人はただ、その絵を完成させるために生きているのです。

 私という絵には、貴方との思い出や、このウィーンでの日々、ピアノ、そんなものが描かれているのだと思います。そして、それらの中央には一際大きく、桜の古木が描かれている筈です。

 私と、私の先生の思い出の桜です。

 貴方はこの先生を御存知ないでしょう。なにせ、貴方と出会った年よりさらに6年以上も昔の話なのですから。

 先生はピアノ教室の教師、私はその生徒でした。私がこの先生のもとでレッスンを受けた8年間が、今の私を作ったのです。人格的にも、ピアノの道においても。

 桜の古木は、先生のピアノ教室の庭にあったものです。だから、私にとって先生は貴方と同じくらいに桜の似合う人なのです。

 今朝の話をしていたつもりが、いつのまにやら昔話になってしまいましたね。まだまだ書きたいことがあるのですが、眠くなってきたのでここでペンを置こうと思います。 とにかく、私は元気です。

 貴方の絵には一体何が描かれているのでしょうか。それとも、音楽家らしく五線譜に綴られたメロディーなのでしょうか。是非とも教えて下さいね。お返事待っています。

貴方の親友より

著者

時雨薫
時雨薫
中央アジアに行きたい。

コメント & トラックバック

  • コメント ( 2 )
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  1. 渡部ひのり

    アクシデントで星が…ホントは5個です。早速ぶわって目頭にきました。寒くなってきたので春はいいですね

    • 時雨薫
      時雨薫

      ふにゃぁぁぁ(#^.^#)
      星五つだなんて感激です、感動です、今世紀最大級の驚愕です!
      というか今の今まで自分の作品が掲載されていることに気付かなかっったorz
      書くからね!頑張って続きかくからね!

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