【文豪】

ホットケーキが冷めるまで 上

 掃除をしている最中、姪の箱に目が留まった。ひとかかえもある箱にはタオルが被せられ、持ち主の到着を静かに待っている。納められているのは絵本、ゾウのぬいぐるみ、青い髪の人形、動物型のカラフルな積み木……。こまごましたお菓子のふろくは箱を飛び出し、部屋のあちこちに散らばっている。姪が大きくなるに連れ、麻海の暮らすマンションは以前に比べてうるさく、そして華やかになっていた。

 早々に掃除を終え、麻海はテレビを見ながら時間をつぶした。午前中に見る番組は見慣れないものが多く、思いのほか楽しめた。インターフォンの音に慌ててテレビを消し、玄関へ走る。

「いらっしゃい」

 ドアの向こうにはスーツ姿の姉と、ワンピースを着た姪が待っていた。

「おはよう、麻海。千冬、おはようはどうしたの」

 姉は下がり眉の似合う、人の良さそうな顔をキュッと引き上げて、姪と繋いだ手を引いて窘める。乾燥し、アカギレの入った手が、白い小さな手を強く握り込んでいた。

 姪は俯いていた顔を上げた。

「おはよう、あさみちゃん」

 そして静かに目線を爪先へ戻した。ビニール製のサンダルから、切りそろえられた小さな爪が覗いていた。

「今日も頼むわね、麻海。なるべく早く迎えに来られるようにするから」

 姉は早口に言うと繋いだ手を離し、顔の横で振った。「ちぃ、じゃあママ行って来るね」

 踵を返して玄関から出て行く姉の背を、姪はじっと見ていた。若木の枝のように細い両足を寸とも動かさず、唇を食いしばり、眉根を寄せている。

 麻海は「車まで送るわ。ね、千冬」と姉を呼び止めて、小さな手をそっと握った。それは柔らかく、湿っていた。

 姉はちらと肩越しに目線を投げかけ、「ああ、じゃあ早くして。時間ぎりぎりなのよ」階段に向かった。そんなことしなくてもいいのにと言いたげな、煩わしそうな早足だった。麻海は安いつっかけの踵を床から引き剥がし、姪の手を引っ張って、姉の背を追いかけた。

 エンジンを吹かしたままの車は「早く仕事へ向かいましょう」と急かすようだった。

「行ってきまーす」

 運転席から顔を出して、姉は二人に笑顔で手を振った。麻海も笑顔でいってらっしゃいと手を振って送り出したが、姪は仏頂面で車の背を見送るだけだった。

 

 壁掛け時計を見るとお昼近くになっていた。まどろみかけた意識を振り払い、麻海はソファを下りてキッチンへ向かった。

「ちぃ、お昼ごはん一緒につくろうか」

 アニメに集中していた姪は振り返りもせず答えた。「これ見てたい」もう何度も観ているアニメのはずなのに、いつも夢中になっている。

 さも残念そうに麻海は言う。「今日はホットケーキを作ろうと思ってるんだけどな」

「えっ」姪はソファの背もたれから乗り出し、興奮気味に言った。「ちふゆ、それできるよ。ちふゆもやりたい」

「じゃあテレビ消して、台所で手を洗って」

「見ながらやりたい」

 カウンターキッチンから目線を上げた先にテレビが見える配置なので、それも可能だったが却下した。

「ダメ。テレビ消しなさい。DVDなんだから終わってから見ればいいでしょう」

「あ、そっか」とリモコンを操作した。

 台所は狭く、姪が作業するには台も高すぎたので、リヴィングのテーブルに材料と調理器具を手分けして運んだ。ここでなら正座したままでも作業ができる。

 姪はボウルにホットケーキの粉をあけるが、勢いが強く少しこぼしてしまい、手で払った。牛乳を計量カップで量る。姪はカップの数字を睨んでいた。「ごう、ぜろ。ひゃく……」。

「百五十まで入れるのよ」難しそうな顔をされたので言い直した。「いち、ご、ぜろのところ」

「それならわかる」とカップを確かめて、牛乳パックを傾けた。零すのではと内心はらはらしていたが、百五十に合わせてみせた。「ぴったり!」歓声とともにカップを頭上に掲げ、結局こぼしてしまった。濡れ布巾で髪についた牛乳を拭き取り、麻海は鼻を近づけた。

「いまは臭わないけれど、まあたぶん大丈夫でしょ」

 卵を割る作業はさすがに難しかったらしく、卵をふたつ握り潰し、結局麻海が割入れた。

「あれかして、まぜるやつ。ちふゆ、できるから」

「泡立て器ね。はい」

 麻海の手から泡立て器をもぎ取り、姪は力強くかき混ぜ始めた。生地が飛び散る。その間に麻海はホットプレートを温めた。

「そろそろいいんじゃないの」

「ううん、まだやる」

 放っておくと永遠に混ぜ続けそうだった。「混ぜすぎるとふくらまなくなっちゃうよ」「だまが残っているわね」と教えたくなったが、姪が満足するまで見守ることにした。

「あさみちゃん、できたよ」

「オーケー、しっかり混ざっているわね。さ、焼きましょうか」

「うん。ちふゆできるよ、やらせて」

 生地をすくい取り、ホットプレートへ運ぶ。おたまから垂れた生地がテーブルに線を引いたのに気付いて、姪は情けない声を出した。生じた汚れに気を取られて、おたまの注意がおろそかになっている。このままではすくったものを全てこぼしそうだったので、麻海は慌てて言った。「あとで拭けば大丈夫だから」

 姪は生地をそうっと流し込んだ。プレートの真ん中に、生地が少し歪な丸に広がっていく。

 ボウルにおたまを突っ込んで、焼く作業に集中し始めた。「ほら、テーブル拭かなきゃ」。指摘すると、はっと驚いた様子で台拭きを手に取った。

 恐らく一番楽しいと思われる焼く作業にやっと到達し、フライ返しを握りしめ、クリーム色の生地とにらめっこを始める。

「プツプツって出たら、ひっくり返すの」

「へえ、よく知っているわね」

 感心した表情を大げさに表す麻海に照れたのか、唇の端を持ち上げて俯いた。

「あ、出てきた」

 仰ぎ見て同意を求める姪に微笑んで応える。「次はちょっと難しいよ。出来る?」

 少し不安げな顔で、「たぶん、だいじょうぶ」とフライ返しを握り直した。

 手が震えるほど慎重に、生地の端へフライ返しの先を差し込んだ。少しだけ持ち上げ、焼き加減を覗き込んで確かめる。

「まだだめだった」

 ふたりは頷き合い、しばし待った。

「そろそろやってみる」

「おお、やってみなさい」

 意を決したような目線に麻海は頷き返した。

 両手で握り直したフライ返しを深く差し込み、ホットケーキを持ち上げた。

 そのままゆっくり傾けていくが、滑り落ちて元に戻ってしまった。

「うまくいかない」とじだんだを踏んで、フライ返しを麻海に押し付けた。「あさみちゃんやってみて! そしたらちふゆできるから」

 フライ返しを譲り受け、意気込んで言った。「よーし、しっかり見ときなさいよ」

 麻海は観察しやすいよう、出来る限りゆっくりとホットケーキを返す。その様子をかじり付いて見る姪に「ほら、どうだ」と得意げに笑った。

著者

aobayashi

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