【文豪】

50、43、そして35(18)

「下で一緒だった男は誰だべ。進駐軍だろ」
「遅いから家まで送ってくれただけよ。とても紳士的な人だわ」
「俺とは違ってか」  
 絹子は聞こえなかったふりをしてコートを脱ぐが、清一郎は濁った声で会話を続ける。

「俺と寝ても一銭にもなんねえもんな」
「やめて」
「本当のことだべ」
 湯のみに入った酒を飲み干し、清一郎は赤らんだ目をふせもごもごと呟いた。
「二階で客取ってるんだべ?俺も行けば大歓迎されるのかい」
「そんなお店じゃないって、あなただって知ってるでしょ?」
 怒りを抑え、絹子は幼子に語りかけるように返答する。
「あんたは偉いよ」

 清一郎の自嘲的な言葉は絹子を幾度傷つけたことだろう。
 慣れたとはいえ二人の会話は日に日に減ってゆき、清一郎が一人になりたがっているようにも見えた。
 そのくせ帰りが遅ければ不機嫌になり、絹子は作り笑顔を浮かべる気力さえ失われつつあった。
 マサナの言葉に反発したのも虚勢を張っていただけで、やはり自分は間違っていたのかもしれない。

「これ、あなたのお義兄さんからよ」
 絹子は意を決するとかばんの中から封筒を取り出し、小さな紙切れを清一郎の目の前につきつけた。
 清一郎は迷惑そうに手で軽く払うが、絹子は引き下がらず「きちんと見て」とちゃぶ台の上に広げる。
 今の清一郎は自分と関わりたくないのだとユキオはわかっていた。会いに行っても追い返されることを恐れ、マサナに言づてを頼むしか方法がなかったのだ。

「お義兄さん達に会いたくないのはわかるわ。でもユキオ君は関係ないでしょう。あの子は清一郎さんのこと、信じて待ってるのよ」
からっぽの湯のみを握りしめ、清一郎は目の前の紙切れを睨みつけていた。 
「ユキオ君に会ってあげて。そして嘉一さんの手紙を読んであげて。きっと悪いようにはならないから」
「知った口聞くんでねえ!」
 壁に向かって叩きつけられた湯のみが、もろくなった壁砂を巻き込み砕け散っていく。
 再び部屋の中は恐ろしいほどの静寂に満たされ、絹子は悲しみに押しつぶされまいと唇をかみしめる。
 
「無理なんだよ。嘉一さんが死んで俺の世界は変わった。あんたは何も変わっちゃいねえ。けど、俺はもう今までどおりには生きていけねえ」
 そうではない。本来あるべき姿に世界は形を変えただけなのだ。
「そばにいたのに、あいつの親父を引きとめられなくて、死なせて、情けねえところばっかり見せて、俺はユキにどの面下げて会えばいいんだべさ?」
「あなたは何も悪くない」
 けれど清一郎は力なく頭を振るのみである。
 絹子は清一郎の心を動かす言葉を持たない自分を恥じていた。
 ありきたりな言葉で片付けられるなら、人は苦しんだりしない。 

「どうしてそこまで、自分を蔑むの」
「価値のない人間だからだよ。俺はあんたを嘉一さんにとられたくないって、そればかり考えてた。したっけ、ばちが当たったんだわ」
 清一郎は見慣れた歪んだ笑みをもらす。飽きることなく自らを責め立て、果たしてその先に何があるのか清一郎もわからなかった。
「嘉一さんのものが欲しかっただけなの?私が好きだったんじゃなくて、そういうことなの?」
 涙をこらえる絹子の声が、頑なであった清一郎の心にかすかな痛みをもたらした。
 まともに自分の顔を見てくれたのはいつ以来だろう、と絹子はようやく顔をあげた清一郎と静かに向き合っていた。
「違う、俺は確かに」
 本当はどちらも選べないくらい大切だった。

 絹子の脱いだ紺色のセーターが畳の上で乾いた音を立てた。それから格子柄のスカートがするりと足元に広がるのを見届けると下着のみを残し、絹子は窓辺の清一郎に歩みよる。
「あなたは脱がないの?」
 震えているのは寒さのせいだと絹子は何度も自分に言い聞かせた。
 すっかり酔いの冷めた顔で絹子を見上げ清一郎はもそもそと唇を動かすが、その声はあまりにか細く絹子の耳には届かなかった。
 けれど絹子はその声を確かに受け取っていた。
 絹子の両手が清一郎の豊かな髪を包み込む。逃げ出すように視線をそらす清一郎の頭を抱え、互いに戸惑う唇を重ね合わせた。
 強張った両手が絹子の腰にまわされ、薄い布越しに清一郎の手のひらの熱さがじわりと伝わってくる。  涙を伝う絹子の頬に手をやり無骨な親指でそっと拭いとると、清一郎はもう片方の腕に力を込めた。

***  

 突然の絹子の訪問は当然歓迎されたものではなかったが、志づは自分でも驚くほど冷静であった。
「ユキオちゃんなら荷造り中だよ。荷造りったって、物らしい物なんかなんも持ってないけどね」
 絹子は礼を言い、雪かきの邪魔をしたことを詫びた。
 そして清一郎のことを何も聞かず、自分を責める言葉さえ言わずにいてくれたことにもう一度感謝の念を込めて頭を下げる。

 これは最後の儀式なのだと絹子は自分に語りかけた。
 嘉一が自分に何を書き残したのか、見ずともわかる。
 生前自分を励まし続けてくれた時と同じように最後の言葉もきっと、これからの自分の背中を押してくれる。
 そして今はまだ気持ちの整理がつかなくとも、いつか清一郎もここに帰ってくる。
 昨夜のようになけなしの勇気を振り絞り、自分を受け止めてくれたように。昨夜のあなたが、迷う心を定めてくれた。  

 ユキオはマサナから譲り受けた革の旅行かばんに、マサナから譲り受けたいくつかの書物を丁寧に詰めていた。
 上等の服はいらないとユキオは遠慮したが、志づが新たに編み上げたセーターや毛足の長い暖かなズボンも和紙に包まれ、かばんの中に納められた。
 火の気のない部屋での作業に、あっという間に指先はかじかんでいく。
 冷たくなった手のひらをこすり合わせるユキオに、絹子はそっと近づいた。

「私にも手紙を見せてくれる?」
 絹子の柔らかな声にユキオははにかんだ笑顔を見せたが、その隣に清一郎がいないことに少々の寂しさを覚えた。
 顔には出さずとも、落胆の色は隠せなかった。
 それでも絹子が会いに来てくれたことは嬉しかった。
「手紙の他にも」
「なあに?」
 小さな木箱を取り出し、ユキオは上がりがまちに正座した絹子の前にそっと置く。

「これ、私があげた鍵」
「いろいろ試したけど開け方がわからなかったんだ。でも絹子さんなら」
 絹子は鍵を裏返してみるが、手がかりになりそうなものはなかった。
「私も番号はわからないわ。一度見たけど覚えてなくて。どこかに残ってないかしら、もしかすると手紙の中に」
 鍵にくくりつけられた番号の札を思い出して絹子は言った。

「そいつは俺のもんだ。こっちによこしな」
 乱雑な物音と共に引き戸が開け放たれ、三上は二人を見るとにたりと笑った。
 三上の下卑た笑みから逃れるようにユキオと絹子は後ずさる。
 清さん、とユキオは心の中で清一郎の名を呼んだ。

著者

渡部ひのり
時代劇もファンタジーもBLも恋愛物も刑事ものも、なんでも好きです。面白いものに垣根はありませぬを体現できるようになれたらいいなと思っています。

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