【文豪】

50、43、そして35(17)

 間口の狭い縦長の店の一番奥には、コップを拭いている赤いワンピースの絹子がいた。
 おそらく太陽の下では目も眩まんばかりのその色も、薄暗い店の中では落ちたもみじのようにどこか寂しげであった。
 マサナは中折れ帽を脱ぎ、雪が入り込まないよう急いで戸を閉める。そして五、六人並べばあっという間に満席であろう店内を突っ切ると絹子の前に立った。

「お絹さんだったかな。清一郎君が迷惑をかけた」
 絹子はマサナの謝罪を聞いていないかのように、乾いたコップを電球にかざしては洗い残しを確かめている。
 テーブルを挟んで向かい合わせに立つマサナが懐から煙草を取り出すとようやくコップから手を離し、流れるような動作で火をつけてやった。
 飲み物はとたずねられ、マサナは少し間をおいてから「あなたと同じで結構」と言った。
 いつもよりぐんと冷え込む夜だったせいか町は閑散としていた。
 客はマサナ以外に一人きりであり、他にはそのお相手をしている店主らしき小さな老婆がいるだけであった。
 朝から一度も途切れることない雪は、闇の中を遠慮がちに舞い続けている。

「ご案内しましょうか。彼なら部屋にいると思いますけど」
「いや、ここで」
「ご用件は」
 絹子は自分の煙草に火をつけると、横を向いて煙を吐き出した。
 それから絹子は飲み口すれすれに満たされた温かいコップを、カウンターテーブルとは名ばかりの穴の開いた粗末な板の上に置く。
 裸電球の下でゆらめいている液体は、光を浴びて落日色の波を作り上げていた。

 さざ波のおさまった小さな水面からわき出す湯気を見つめ、マサナは煙と共に苦み走った言葉を吐き出した。
「清一郎君と別れてくれないか」
 絹子は片肘をついたまま、相変わらず煙草を吹かしている。
 その煙は汽車が吐き出す荒々しい黒煙を思わせる形状の時もあれば、ふんわりとした小さな綿雲のような時もあり、絹子の唇によって自在に形を変えた。

「あなたには嘉一さんが望んだような良き人生を歩んでほしい。遠からず清一郎君に食い潰されて、あなた自身何も残らなくなる」
「良き人生とは何です。人から後ろ指さされずにすむ生活?」
「彼に情けをかけてはいけないと言っているんです。彼は今その状況に気づいていない」
「いいえ、気づいています。ただもどかしさを感じているだけ」

「やりたくもない機関士を無理やりやらされて何もかもいやになったのかもしれない。それなら機関士でなくてもいいんです、自堕落な生活から足を洗ってほしいと私どもはそれだけを願っているのです」
「清一郎さんは、機関士であることを誇りに思っていました。そしてあなた達のような先輩がいることも」

 そこまで彼を思いやっているのなら、どうして見て見ぬふりをするのかマサナには理解しがたかった。
 共感も必要だが、それ以上に必要な勇気に欠けているだけなのではないか。
「諌めるのも女性の器量です。それとも逆上した清一郎君に捨てられてしまうのが恐ろしい?」
 意地の悪い言い方であったとマサナは思うが、撤回せずに絹子を見守った。
「頭の方に器量があったら、こんな生活してないわ」

 明らかに強がりだ、と絹子は自覚しつつも悔しさを見せまいと、峠前で加圧された汽車のごとき勢いの煙を吐き出した。
 目の前の男に迷いを含んだ心の内を知られたくはなかった。
 頼りない店の明かりとは対照的に強い光を瞳に宿らせ、絹子はほんの少し怒ったような顔でマサナを見すえていた。
「時間が解決することだってたくさんあるでしょう」
「正論ではありますが」
 猫が爪を立てた、とマサナは愉快に思った。 

「一つ大事なこと。清一郎君は、ユキオ君のことまで忘れてしまったのかな、だとしたら悲しいね。彼が命がけで連れ帰った子だ、もっと思い入れがあるのかと思っていたが、所詮他人か」
 本来はユキオの話など持ち出すつもりではなかった。
 完全にいやな人間だと認定されただろうが、マサナはそもそもこの女性の前でいい人であるつもりもなかった。

 当然、絹子から返された言葉も刺々しいものであった。
「お義兄さんがあなたのこと血も涙もないろくでなし呼ばわりしてたって伝えておくわ」
「むしろあなたの方が的を射ていると思います」
 絹子の反撃も、マサナには傷一つ付けることすら無理のようである。

 マサナはコートの内ポケットに手をやり、茶封筒をテーブルに置いた。
 中身が何であるのか、見当はついた。
「お金はいらないわ」
 再び感情を隠した瞳に戻り、絹子は裸電球めがけて煙を吐き出す。
「いいから取っておきなさい。清一郎君には内緒だ。どうせ飲み代に消えてしまうんだから」
 目の前のコップに注がれた液体をようやく口にすると、マサナはわずかに眉をしかめながらもゆっくりと飲み干し、帽子を手に取った。

「あなたは、今の生活を心から楽しんでいますか。彼と一緒で幸せですか。私には、とてもそうは思えない」
 絹子は、はいともいいえとも答えなかった。答えられるはずもなかった。
 ふいにぷくりと小鼻が膨らみかけ、絹子はあわてて表情を引き締める。
 湿りかけた瞳ながらも、絹子は凛とした眼差しでマサナのやや色素の薄い瞳をのぞき込んでいた。
 その瞳を見ると、なぜだか肩が自然と下におりていくような、全身の力を失ってしまうような錯覚にとらわれた。そのくせ、どこか懐かしい気配を漂わせている。
 瞳の色が時と場合によっては、ひどく苦手な印象を人に与えることもまた事実のようであった。

 絹子は自分でも驚くほど、柔らかな口調に変わっていた。そしてふいに口をついた言葉の数々も、先ほどまでの攻撃的なものとは異なった。
「私は父を待つだけの母を、長いこと理解できませんでした。でも今は」
 口をつぐむと、絹子は残りの言葉を消し去るように煙草の火をもみ消した。
 愚かだと言われても、理屈では片づけられない思いがそこにはあるのだ。
 あるのだと信じなければ、今の絹子を支えるものなど何もない。
 そう、とマサナは一言つぶやく。

 喋り疲れた、と絹子の分の飲み物にも手をつけ、マサナは先ほどよりは早いペースで二杯目を空にした。
 妻とですら、ここまで長く語り合ったことなどないというのに。
 今日の自分は、マサナ自身にも奇妙な発言の連続であった。
「ごちそうになった」
「いいえ」
 二杯にしては多すぎる代金を置き、マサナは店を後にした。

 中折れ帽をきっちりかぶり直して去ってゆくマサナを、老婆は興味津々で眺めまわしていた。
「なんだい、あの旦那。白湯だけで帰っちまいやがった。いいもの着てたし、ちゃんとした酒出してやりゃあよかったのに」
「二度と来ないからいいのよ」
 絹子は空のコップを片づけると、何かを口ずさみながら裏口に向かっていった。

著者

渡部ひのり
時代劇もファンタジーもBLも恋愛物も刑事ものも、なんでも好きです。面白いものに垣根はありませぬを体現できるようになれたらいいなと思っています。
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