【文豪】

50、43、そして35(13) 

 太陽がその日一番高く昇った時刻も、旭川の気温は氷点下であった。
 忠別川のたもとで絹子と待ち合わせをした後、清一郎は神楽岡公園へ足を向ける。
 昨晩の雪をふんだんにまとったトウヒが、きらきらと眩しい光を放っていた。
 ふいに絹子はトウヒを指差し「少し前に、倉庫にサンタクロースの本があったの。挿絵のクリスマス・ツリーと一緒」と嬉しそうに言った。

 こんなしばれる日にふらふら散歩している場合じゃねえ、彼女が風邪でも引いたらどうする、と清一郎は己を叱責するが、もう少しこのまま二人でいたい気もした。
「本当にいいの?先にお姉さん達に話した方がいいと思うけど」
「大丈夫だ」
 不安を隠しきれない絹子に向かって、清一郎は軽くうなずいてみせた。
 先日別れ間際に清一郎は、まずは親代わりの嘉一さんに挨拶しねえとな、と緊張つつ提案したのだった。
 絹子は言葉少なに「はい」と頬を赤らめ微笑んでいた。

 あ、と声をあげつつ、絹子は雪の上にしゃがみ込む。
「ナナカマド、ふんじゃったの」
 絹子は申し訳なさそうに、難を逃れた緋色の木の実をひとつ手に取った。
 清一郎の背よりも高く伸びた枝の先には、数えきれないほどの赤い実がたわわにぶら下がっていた。
 かつての絹子の唇を思わせる、目の覚めるような赤であった。
 清一郎は絹子の手のひらを覗き込みながら、この人の手は何度見ても好きだ、と思った。

 いつもより二人の距離が近いと気づき、とっさに後ずさる清一郎を絹子は不思議そうに見つめている。
「ゆんべ狸食ったから、狸臭いんでねえかと。したから近寄らない方が」
「お酒の匂いよりましよ。それに狸の匂いなんてしないから、多分」
「姉さんが臭えって散々文句言ってたんだ」
 絹子は屈託ない笑い声を上げる。遠慮でも気遣いでもなく、本当に気にならないようで助かった、と清一郎は安堵の笑顔を返した。
 嘉一さえ味方になってくれたら姉やマサナなどどうとでもなる、と清一郎は単純に考えていた。ついでのように菊池翁も。
 清一郎は今年最後と思われる覚悟を決め、嘉一の元へ向かうのであった。

 奥から杵を担ぎ、こちらに向かってくる菊池の姿がある。
 午後の昼下がりといえども氷点下である。にもかかわらず、菊池は見る者を震え上がらせる寒々とした薄着であった。
 おまけに皺だらけの額には、じんわりとした汗さえ浮かんでいる。

「丁度いかった!餅つきの人手が足りてねえんだけどさ。今日は暇だべ?」
「嘉一さんに用があるんですよ」
 思えば朝早くから志づが、婦人会の女性達とせわしなく外を走り回っていた。
 官舎の住人達で餅をつき、配り終えれば本当の年越しだった。
 早く済ませてこいよ、と菊池はいつものように一方的にまくしたてると元の道を戻っていった。

 戸に鍵はかかっておらず、清一郎は「嘉一さん?」と声をかけながらそうっと引き戸を開ける。
 どことなく後ろめたいものがあるのか、普段の清一郎らしい傍若無人さは完全になりをひそめていた。
 嘉一からの返事はない。
 というよりも、屋内に人の気配が皆無であった。
 部屋は外よりましな程度の暖かさであったが、ストーブの火は消えていた。
 石炭の燃えかすがくすぶる音だけが聞こえる。
 奥の部屋と板の間を隔てる木戸は、ぴたりと閉ざされていた。
 非常に嘉一らしい、清潔な空間であった。
 靴は土間の上にきちんと揃えられており、確かに在宅中のはずだった。

「嘉一さん、あがるよ?」
 清一郎は埃ひとつない板の間にあがり、木戸の前で再び嘉一の名を呼んだ。 
「いないのかしら」
 靴があるのにおかしいでしょや、と清一郎はがたごとと重い音を立てながら、建てつけの悪い戸を半分ほど開けた。 

 四畳程の和室はひっそりとしており、薄暗い部屋の隅に置かれた小型の茶箪笥がぼんやりと目に入った。
 その次に視界に映ったものは、清一郎の呼吸を無意識に止めた。
 ほの暗い部屋の真ん中には、宙に浮かぶ人の足があった。
 幾重にも渡された梁の上からぶら下がっているのは人間の体だった。
 清一郎は梁を見上げたまま、ぷつりと糸を切られた操り人形のように崩れ落ちていった。

 立ち上がろうにも膝はがくがくと震え、指先は何かを探し求めながらむなしく冷たい床を這いずりまわった。
 早く降ろさなければ、と清一郎は必死で自分自身に呼びかけるが、腰は自由を失っていた。
 清一郎の背後で床板がきしむ音がした。
 絹子は小刻みに震えながら、半開きの木戸にしがみついていた。

「嘉一さん!」
 絹子の悲鳴にも似た声が、清一郎の遠のきかけた意識を呼び戻した。
「いや、どうして」
 嘉一に駆け寄り、だらんとした足にしがみつきながら絹子は泣き叫んでいた。
 はるか遠くにある、嘉一の土気色に変わった顔を涙でくもった瞳で見上げ、絹子は再び叫び声をあげた。

「駄目だ、見たら駄目だ!」
 清一郎は二人を飲み込む闇から逃れようと、絹子を引きずりながら板の間へ這い出した。
「奥の空き地に菊さん達がいるはずだ。行ってくれ」
 絹子は清一郎の胸に顔をうずめ、しゃくりあげていた。
「早く!」
 絹子はふらふらと立ち上がり、よろめきながら雪道に消えていった。

 清一郎はその後ろ姿を見送ると、途端にすさまじい吐き気に襲われる。
 転げ落ちるように土間へと這い出ると、玄関先の木の根元にうずくまりながら込み上げてくるものと戦っていた。
 吐きたくとも何も吐けず、強烈な胃の痛みに涙が滲んだ。
 焼けるような痛みだけが喉へと上がってくる。
「嘉一さん、嘘だろう、なして」
 清一郎は咳き込みながら、何もかも拒絶するかのように冷たい雪に額を押し付けていた。

 昨日は笑っていたのに、どうして。
 自分が責めたせいか、いや違う、それでも許してくれた、したら何故。
 清一郎には自分自身でも触れたくない、醜い心の闇があった。

 嘉一は、清一郎のの絹子に対する気持ちを知っていた。
 はたして、嘉一の本音はどうであったのか。
 清一郎は都合が良いように、無理矢理「親代わりの親心」と結論づけていた。けれど本当は、そうではなかったのだとしたら。 
 自分が絹子を奪ったせいなのか。
 それとも、死神のごとく付きまとう三上のせいで追い詰められていたのか。
 何よりユキはどうするんだよ、せっかく一緒に暮らせるようになったのに、また一人にするのか。

 分からない、何も分からない。
 清一郎の嗚咽は無情な雪に飲まれてゆく。
 もう二度と、嘉一の口から答えを聞くこともできない。
 包み込むような笑みを浮かべていることも、感情を殺した顔で見つめ返してくることも、全ては戻らない過去となった。
 清一郎が目を開けると、まるで時を見計らったかのように、どさりと重々しい音を立てて空から落ちてくるものがあった。
 雪の重みに耐えかねて折れたナナカマドの赤い実が散らばり、白雪を血の色に染めていた。

著者

渡部ひのり
時代劇もファンタジーもBLも恋愛物も刑事ものも、なんでも好きです。面白いものに垣根はありませぬを体現できるようになれたらいいなと思っています。
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