【文豪】

50、43、そして35(12) 

 絹子の静かな声は、凍える夜のしじまを縫ってゆく。
「あなたも、嘉一さんみたいなこと言うのね」
「え」
 瞬く間に清一郎が青ざめ、指先まで凍ったように動かなくなった。
「身内だと思ってくれていいって、言ってくれたの。よく知りもしない私の為に家も仕事も探してくれて。父を止められなかった罪悪感かしら?じゃあ、あなたはどうして?樺太に残らなかったから、心苦しい?可哀相な人は助けてあげなきゃって思うの?」
 次第に刺々しくなる絹子に、ここで怒りだす理由がわからない、と清一郎はうろたえる。

「そうじゃねえよ」
 清一郎は、もごもごと反論する自分がつくづく情けなかった。
 それでもなけなしの勇気をふり絞り、清一郎は気迫のこもった眼差しで絹子を正面から見据えた。 
「俺は本気で、あんたが嫁さんになってくれたらいいって」

「俺は嘉一さんみたいに出来た人間じゃねえけど、まだまだだって自分でもわかってるけども」
 言葉にするたび、自分がますます情けなくなる。
 これ以上嘉一を引き合いに出すのはやめよう、と清一郎は心の軌道修正をすべく盛大な深呼吸をした。
 外灯の下、白い吐息が清一郎を柔らかく包み込み、絹子はその幻想的な姿に思わず見とれていた。

「こったら時にどさくさまぎれに言われても、どう返事していいかわかんねえよな。あんたの都合も考えなしに、すまねえ。約束した人がいるなら、今すぐ断っていいんだ」
 例えば嘉一さんとか、と清一郎は一向に軌道修正できないまま、頭の中でぐるぐると何度も繰り返す。
 やっぱりもう駄目だ、と清一郎は絹子から目をそらすと肩で大きく息をし始めていた。

 青くなったり赤くなったり忙しい清一郎と相反して、絹子は落ち着きを取り戻していた。
 この人はいつも嘘がない、正直さが取り得の見本のような人だと絹子は彼に会うたび思っていた。
 心が暖かくなれるのはこの人の隣にいる時だった。そしていつも嘉一が、自分の背中を押してくれた。

「お父さんは昔からどうしようもない人だったから、そんなに落ち込んでないのよ。今は、あなた達の方がずうっと大事。だからその前に、嘉一さんと仲直りしてね」
 わかった、と清一郎は大真面目にうなずいた。
 今なら何だってできる、あんたの為に。
 あなた達、とひとくくりにされたのは非常に残念だったが、少なくとも自分の存在は無駄ではなかったのだと無理矢理解釈することにした。

 女心とやらはさっぱりわからないが惚れた弱み、我ながら涙ぐましい努力だとも思った。
 ん、と清一郎は小首をかしげ、無意識に絹子の手を取った。
「その前、ってのはその後に俺とのこと考えてくれるって意味か?」
 絹子はこくりとうなずくと、白い吐息にほんのりと赤らんだ顔を見せた。


***


 今日で最後だというのに、ぎくしゃくとした空気が二人の間を漂っていた。
 意識しているのは清一郎だけなのかもしれない。
 いつも通り嘉一は言葉少なに、いつも通りの指示を出した。
 昨夜の話を持ち出す余裕などなかった。
 清一郎は何も気にしていないふりをしたまま、煤まみれの一日を終えた。

 またもや菊池が風呂場に顔を出し、開口一番に言う。
「保線の奴らから狸汁食いにこいって呼ばれてるんだ。お前達も行くだろ?」
「はあ、その」
 線路脇に倒れていた不幸な動物が、しばしば鍋となって鉄道員達の胃袋を満たした。
 しかし、清一郎は狸が嫌いだった。料理人の腕にもよるが、狸の放つ強烈な臭みに耐えられないのである。

「ついでに昨日お流れになった勝負でもしようや。マサが弱すぎて話にもなんねえ。まあ、お前もマサも似たようなもんだけどな。嘉一もたまには付き合えよ」
「狸は苦手です。オットセイなら呼ばれますけど」
「贅沢なやつだ。食いたきゃ稚内にでも行って来い」
 自分もオットセイなら喜んで呼ばれるけども、と清一郎は寝不足の頭の中で懐かしい樺太時代のオットセイ汁を再現していた。

「さっきから上の空じゃねえか。まさか今日もあの姉ちゃんと約束してるのか」
 菊池の野太い声を合図に、突然オットセイから絹子の紅潮した顔に切り替わる。
 清一郎はそうじゃねえ、と心の中で叫んだ。
 今日一日自分の脳内を占領していたのはオットセイでも絹子でもなく、嘉一だったはずだ。
 なんとしても乗り越えなければならない壁があった。
 壁を越えれば、愛しい絹子が待っている。自分に向かって両手を広げ、はにかむ絹子の姿がふいに浮かんだ。

 清一郎は勢いよく頭を下げ、周りが驚くような大声を出した。
「昨日は、すいませんでした!これからもよろしくお願いします!」
 嘉一は腕を組み、大きな背中を丸める清一郎を見下ろしていた。

「これで安心して狸汁食いに行けるな。昼飯もほとんど食ってなかったろう」
 おそるおそる顔をあげた清一郎は意表をつかれ、ぽかんとしていた。
 嘉一の肩がこころなしか小刻みに震えている。
「今にも死にそうな顔してたよ。朝から目が赤かったし、お前のことだから一晩中反省でもしていたのかと思った」
 嘉一の押し殺したような笑い声とは対照的に、清一郎は気恥ずかしさでかちこちに固まっている。
 でもよかった、怒ってなかった、と次第に清一郎の心も体もほぐれていく。

「絹子さんが、仲直りしれって言うから」
「予想どおりだ。彼女に嫌われたくないもんな?」
 ふてくされたように呟く清一郎を眺め、嘉一は挑発としか思えない笑みを浮かべた。
 嘉一には全て見透かされていた。そしてこれ以上、嘉一の口から絹子の名を聞くのも限界であった。
「菊さん、行くべ!」
 強引に菊池の腕を掴み、清一郎は大股に歩き出した。
 そして嘉一を振り返ると、恨みがましい視線を送った。
「嘉一さんて、案外底意地悪いところがある」
 嘉一はくすりと笑うと、いってらっしゃい、と二人に言った。

「なんだ、二人して喧嘩でもしてたか。まさかあの姉ちゃん取り合ったのか?」
「違いますよ!」
 鼻息荒く言い返す清一郎であったが、狼狽ぶりは隠せなかった。
「違うのか。嘉一ともえらく仲いいもんだから、あの子が後妻に来るもんだとてっきり」
 菊池の率直な言葉が、清一郎の弱りきった胸に軽々と突き刺さる。
「嘉一さんは彼女のお父さんですから、恋愛対象にはなりっこねえ」

 誰が何と言おうとも、絹子は自分のものだ。
 どうにか壁の向こう側にたどり着いたんだ、と清一郎はお預けになっていた喜びをかみ締めていた。
「思えば最初から俺の勝ちですけどね」
 と確証もなく、浮かれた言葉さえ口にする。
「そうか、勝ち取ったのか」
 菊池は徐々にふてぶてしさを増す清一郎に困惑していたが、ようやく事情を飲み込んだようだった。

 将棋はからきし弱いくせにな、と菊池は言いつつも、祝福するようにがっしりとした清一郎の背中をばんばんと叩いた。
 俺の人生飛車で一足飛びですから、と清一郎はすっかりいつもの調子に戻っていた。

著者

渡部ひのり
時代劇もファンタジーもBLも恋愛物も刑事ものも、なんでも好きです。面白いものに垣根はありませぬを体現できるようになれたらいいなと思っています。
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