【文豪】

50、43、そして35(10)

 真夏の投炭作業は燃え盛る空気に包まれ、己の限界との戦いであった。
 長い冬の間は雪しぶきと石炭の燃えかすを交互に浴びる毎日である。清一郎は熱い、寒い、と交互に心の中で叫ぶ。
 峠を越えると景色はなだらかな平地へと変わっていく。蘭留(らんる)駅を過ぎた頃、嘉一が「代われ」と言った。
 目だけを覗かせて息を弾ませている清一郎の手からショベルを奪い取り、嘉一は襟元の手ぬぐいを巻きなおした。
 二人は汗と煤にまみれた顔を見合わせ、すぐさま場所を交換した。

 二人の旅路も年内で終わりだった。清一郎は機関士に昇格する為、しばらく教習所通いとなる。
 少しでも伝えられることがあればと、今日のように嘉一が清一郎に実地で教える日も幾度かあった。
 機関士になれば、嘉一と組むこともなくなる。
 寂しい気はしたが、いつまでも機関助士のままではいられなかった。

 車輪に巻き上げられた雪の粒と煙に混ざった石炭のかすが、二人に容赦なく吹き付ける。 
 煤で真っ黒になった鼻をぐいと突き上げ、清一郎は到底良いとは言いがたい視界の先を睨み付けた。
 目の前の窓を目がけて、雪は悪意を持ったかのように絶え間なく体当たりする。
 運転席はもうもうとした蒸気が立ち込めていた。四方八方からの攻撃に清一郎はあえぎながら加減弁のハンドルを握り締める。
 清一郎の横顔を眺め、嘉一は一度だけうなずいた。
 雪けむりは波しぶきとなって、線路の両側の樹木に降り注いだ。


***


 二人は乗務を終え、乗務員用の大きな湯船で一息ついた。
 清一郎の爪のふちには煤が残っていた。
 清一郎は湯船の中でぐったりしていたが、再び洗い場に戻ると開ききったブラシで爪の間をこすりはじめた。
 風呂場の戸ががらりと開き、鉄道工場勤務の菊池が「清一郎はいるか!」と怒鳴った。

「こったらとこまで呼びにこんでも、ちゃあんと行きますから」
 清一郎は振り返らず、爪に視線を落としたままだった。 
「お志づちゃんに昆布巻きといずしがあるからって呼ばれてるんだ。そうじゃねえ。今日もみっちり叩き込んでやるからさっさと支度しろ」
 鉄道講義と言いつつも、実際は将棋の相手である。 

 清一郎は栄のおばさんが届けてくれたいずしや、志づが大量の昆布を水に浸している姿を思い出した。
 早いもんだな、と清一郎は手を休めた。
 気に留めないようにしていたはずの嘉一との一時的な別れに、再びもやもやと感傷的になる。
 ほんの少し現場を離れるだけであるのに、清一郎はなぜか気乗りがしなかった。
 漠然としていたが、年が明けたら何かが変わってしまう気がしていた。

 官舎に隣接した鉄道工場は、旭川機関区内の車両製造や整備を一手に担う巨大な基地の中にある。無数の車庫が連なり、引き込み線が複雑に絡み合うその姿は圧巻であった。
 菊池は工場の老名主と呼ばれていた。隠居とはほど遠く、誰の目にも明らかな健康体の老人である。

 検査実習と称して菊池が清一郎を工場まで呼び出すこともあった。
 現場を取り仕切る菊池の姿を見るたび、清一郎は圧倒された。
 口をさかんに動かしながらも、いたわるように一つ一つの部品を手に取る仕草は名医さながらである。
 学者然とした嘉一やマサナとは違い、菊池は無骨な職人といった風貌ではあったが、清一郎はむしろ本当の自分に近いのはこの老人であると思う。
 工場の外でも菊池の口やかましさは変わらない。
 よくぞ話の種に尽きないものだと清一郎があきれ返るほど、菊池は話好きな男であった。

「なあに色気づいてるんだ。おめえの汚ねえ爪なんか誰も見ねえよ。ちゃっちゃとあがってこい」
 清一郎はブラシを元の位置に戻し、そのまま脱衣所に向かう。
「先に帰っていいですよ。着替えてる間じろじろ見られたら生きた心地もしねえや」
「年寄り一人吹雪の中放り出すのか」
「全然降ってねえっしょ。大げさだべ」
 誰か、と清一郎が脱衣所を見渡すと既に嘉一は帰宅したようだった。
 清一郎は仕方ねえ、と濡れた髪を無理やり帽子の中に押し込めた。

 粉雪が舞う中、二人はきしきしと足音を立てて官舎へ向かう。
 暗闇の中、不意に白っぽいものが動いたような気がした。
 官舎の入口で身を震わせているのは絹子だった。
 清一郎は帽子の中の濡れ髪がざわざわと熱くなるのを感じた。
 倉庫で顔を合わせて以来、二人が接触することはなかった。

 嘉一さんなら、と言いかけた清一郎の目に映る絹子に笑顔はなかった。
 絹子は清一郎の外套を手袋のまま掴んだ。
「嘉一さんが三上と一緒だったの。町の反対方向に二人で歩いていったわ」
「反対側っつうと、川の方か」
 橋に向かって走り出す清一郎を、絹子は「待って」と呼び止める。

「なして?あんたは二人を追いかけたいんだろう。三上にも、洗いざらい話してほしいと思ってるんだろう?」
 絹子は目を伏せ、こくりとうなずいた。
「俺もだ。なんもねえなんて嘘だ」
 再び走り出す清一郎を追い、絹子も雪に足を取られながら懸命に歩き出す。
 二人に背を向け、菊池はマサナの家を目指した。
 その家の煙突からは、暖かな白煙が立ち昇っていた。

 忠別川の橋の上に男が二人いる。あれはやはり、嘉一と三上なのか。
 二人が一緒でなければいいと、清一郎は走りながら思っていた。
 心のどこかで嘉一を疑う自分を疎ましく思っていた。
 同時に、自分をあらゆる方向から悩ませる嘉一が疎ましかった。
「嘉一さん!」

「今のはなんだ、何をこいつに渡してたんだ」
 懐に手をやりながら三上はにたにた笑った。
「やましいもんじゃねえよ。軍資金だ。金がかかるんだよ」
「ふざけやがって」
 三上に歩み寄る清一郎の袖を掴み、嘉一は突き放すような声を出した。
「やめろ清一郎」
「なして?」

「俺が樺太を行ったり来たりするのも半分はこいつの頼みでさ。でもただってわけにはいかねえ。他人に危ない橋を渡らせてるんだ、金くらい当然だ」
 清一郎は薄笑いを浮かべる三上を睨むと、今度は怒りの矛先を嘉一に向ける。
「何の為にだ。なして隠す?俺はもう」
「俺を信用できなくなったか」

 清一郎は息を飲み、乱暴に嘉一の手を振り払った。
 先ほどまで一緒だった嘉一が、とてつもなく遠い所にいると感じた。
 その口から発せられた声にも、海岸に吹きつける海風のような拒絶の響きがあった。
 全てを切り裂く風は、嘉一から吹いていた。

「そうさせてるのは嘉一さんだべ?絹子さんが、三上のこと死ぬほど憎んでるって知ってて……だけどそんならそうと、俺達にわかるよう説明してくれよ。ユキだって心配してんだよ」
 絹子はいつの間にか、清一郎の背中に隠れるように佇んでいる。
「絹子さんの親父さんのこと、知ってるんだべ?あんたが鉱山に関わってたのも本当なんだべ?」
 嘉一の言葉に迷いはなかった。 
「そうだ」

著者

渡部ひのり
時代劇もファンタジーもBLも恋愛物も刑事ものも、なんでも好きです。面白いものに垣根はありませぬを体現できるようになれたらいいなと思っています。

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