【文豪】

真白き雪のような君へ【8】


 身体の感覚が回復するまで長い時間が必要だった。
 しかし神経が覚醒するとともに下腹部の痛みも戻ってくる。
 身体の中心に絶え間なく脈打つ鈍痛が理性的な思考を妨げる。

 スノウホワイトは痛みに耐えられず上体を起こした。
 両足の間に、ぬるりとした感触がある。
 シーツの上に赤黒い染みがついていた。
 それが自分の血だと気付くまで、かなりの時間を費やした。
 隣で俯せに眠る毛むくじゃらの王子に射すような視線を向ける。
 氷より冷たい憎悪が悪性の腫瘍となって心底に根を張った。
 忌々しい、いびきは一層大きく長くなっていく。

 固まっていた手足の筋肉を、ほぐしながら静かにベッドを降りる。
 
 両腿の間に痛みと違和感があり、普通に歩くことができない。
 やっとのことで鏡台に、たどり着くと痛みが響かないよう慎重に腰を下ろした。

 鏡には仄かな月明かり照らされた姿が、ぼんやりと映っている。
 目鼻の判別もつかない人の形をした影は、ぽつねんと鏡の中から見返していた。
 なぜ今、鏡台の前にいるのかスノウホワイトには分からなかった。
 レオナインに蹂躙(じゅうりん)されている間、身体と心が分離した感覚に陥り、いまだに続いていた。

 身体はスノウホワイトの意志を待つことなく勝手に行動を続ける。
 鏡台の引き出しを開け、中にある物を掴んだ。
 立ち上がった彼女は、おぼつかない足取りでベッドへと戻る。
 ベッドの脇に立ち、のんきに眠りを貪るオスカの王子を見下ろした。
 猛烈な嫌悪感が、静まっていた腫瘍を刺激する。

 スノウホワイトは手にした物を両手で持ち、頭上に振り上げる。
 月明かりが一瞬、その物を銀色に輝かせた。

 三日月のように鋭い一振りの短剣。

 短剣を振り下ろす瞬間、心の中の腫瘍が膨れあがる。
 腫瘍は大爆発し、全ての憎悪は刃とともにレオナインの背中に突き刺さった。
 
 レオナインは一瞬、間の抜けたような悲鳴を上げ、頭を仰け反らせる。
 短剣を引き抜くと傷口から血が吹き上がった。
 スノウホワイトは無表情のまま血を浴びる。
 生臭い血の臭いが憎しみを更に増長させた。
 彼女は怒りにまかせて再び短剣を振り下ろす。

 何度も何度も振り下ろす。
 
 レオナインは刺される度に四肢を痙攣させていたが、ある時から全く動かなくなった。
 だが怒りは治まらず、彼女は短剣を振り下ろし続けた。
 ふいに手から短剣が落ち、床に転がる。
 鐘の鳴るような音が鳴り響いた。
 その音が分離していた心と体を再び一つにする。

 我に返ったスノウホワイトの目に、自分のしでかした凶行が飛び込んできた。
 王子だった死体は、いびきを止め、今は静かに身を横たえていた。
 背中には無数の刺し傷があり、背を覆う毛は赤黒い血で濡れて絡み合っている。

 湧き上がる憎悪は、いつしか底無しの恐怖へと豹変する。
 スノウホワイトの身体は熱病にかかったように、がたがたと振えた。
 最初に頭に浮かんだのは、この場から逃げ出すことだった。
 自分が全裸だということも忘れて廊下へ飛び出す。
 幸いと言って良いのか廊下に人影は無かった。
 
 月明かりの下では鈍い赤黒色だった血が、油灯の下で鮮やかな赤色を取り戻す。
 明るい光に照らされる白い雪の如き裸身。
 白い肌を飾る妖しく美しい血の入墨。
  
 スノウホワイトは自分の身体に飛び散る鮮血と両手にまとわりつく血糊を発見し息を呑む。
 吐き気が込み上げ、激しく咳込んだ。
 
「兄様……、助けて……」

 祈るように呟く。
 ブレスドレインだけが心の支えだった。
 だが、そこで愕然(がくぜん)とする。
 自分が二度と彼のもとへは行けないことを思い出したのだ。

 ブレスドレイン……。
 愛しい人……。
 その優しい手に触れらることも、力強い胸に抱かれることも、熱い口づけを交わすことも、もう永遠にない。
 彼が愛したのは白く輝く無垢な雪の精。
 しかし、今の彼女は消え残った雪だ。人に踏まれ、どす黒く汚れ、ゴミとして扱われる哀れな残雪だった。

 ――彼がそんなものを愛するわけがない。

 唯一の支えを失ったスノウホワイトの心は粉々になり、涙が堰を切ったように溢れ出した。

 儀式で目にした民衆達が幻影となり、誰もいない廊下に現れる。
 彼等の称賛の眼差しは、冷たい軽蔑の視線に変わっていた。
 幻影達は彼女を嘲笑い、罵った。

「国の為に身を売ったんだとさ」

「街角に立つ娼婦と同じだわ」

「婚約者が嫌で刺し殺したんだぜ」

「損得で王女も股を開くんだな」

「寝た相手を殺すのが趣味なんだよ」

「売女(ばいた)が!」

「人殺し!」

 スノウホワイトは泣きながら耳を塞ぐ。
 しかし頭の中の罵声が止むことはなかった。
 彼女の精神は狂気という白蟻に蝕まれていった。

 耳を塞いだまま、ふらふらと歩く。
 涙は止めどなく流れ、床に染みを作った。

 倒れそうになり思わず廊下の壁に手をついた。
 すると、手の周りに無数の目玉が浮き上がる。
 忌まわしいブルーヘイルの目だった。
 目玉は池に浮かぶ蛙の卵のように無数に沸きだし、廊下の壁、天井、床を埋め尽くす。そして全てが一斉に彼女を睨み付けた。
 
 スノウホワイトは全身の毛穴から悲鳴を上げた。
 行く当てもないまま走り出す。
 一刻も早く、ここから逃げだしたかった。
 階段を一気に駆け上がる。
 行き着いた先は青い月が煌煌(こうこう)と照らす屋上だった。

 冷気を含んだ秋風が全裸のスノウホワイトに吹き付ける。
 屋上には人気はなく、風音だけが控えめに鳴っていた。
 乱れた心は、冷たい秋風の愛撫によって、いつしか平静を取り戻していた。。

 空に輝く月を見上げる。
 満月は悲しげに彼女を見下ろしていた。

「あなたがうらやましい。永遠に美しいままだもの……」

  月に語りかける。

 それに比べて人間界は、なんと汚いのだろう。
 人の気持ちを踏みにじる父親と王族達。
 勝手な思い込みを押しつける民衆。
 ――そして陵辱され、人を殺した自分。
 全てが穢(けが)らわしかった。

 スノウホワイトは目を閉じ、行く末を案じる。
 レオナインを殺したことが知れれば大変なことになるだろう。
 再びオスカと戦争になるかもしれない。それだけは避けたかった。
 ならば最後の矜持をもって自分を罰するしかない。
 
 屋上の縁まで行き、胸壁(きょうへき)の上に立つ。

 自分を罰するというのは体裁ぶった物言いだ。
 ただ許せないだけだ。血まみれの醜悪な自分を……。
 生き続けたくないのだ。愛する人のいない汚れた世界に……。

 身を投げるために一歩踏み出した。

「世界は汚いか、姫よ」

 突然、背後から声がした。

「誰!」

 驚いて振り返るが、誰もいない。
 不気味な声は更に語りかける。

「我が名はナンビィング。虚無を統べる者なり」

 月光が形作る城の影から声は聞えた。

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