【文豪】

50、43、そして35(9)


 旭川にも、例年どおり厳しい季節がやってきた。
 冬が訪れるまでの清一郎達の生活は、それまでの不快な出来事が嘘だったかのように穏やかであった。
 三上はあれから一度も彼等の前に現われなかった。

 唯一の変化は絹子との関係である。それも自分ではなく嘉一と絹子だ。
 絹子と接する嘉一の心境は、娘を見守る父親のようなものなのだろうと清一郎は結論づけた。
 けれど当の絹子はどうなのか清一郎には知るよしもない。むしろ考えたくなかった。
 絹子と嘉一が親しくすればするほど、清一郎の心は乱れた。
 今までに感じたことのないうっそうとした気持ちの正体に気付けず、清一郎はぼんやりと二人が会話する姿を眺めるだけであった。

 絹子に新しい下宿を紹介し、住まいを移させたのも嘉一であった。
 絹子は勤め先でもあった進駐軍の兵士が出入りする飲食店の二階を間借りしていたが、「独身女性にふさわしい安全な場所」として、盛り場から離れた場所にある下宿へ引越した。
 下宿の大家はたか子の父である。
 同時にこれまたたか子の父が所有する問屋の倉庫に勤めはじめた。
 清水屋と呼ばれるたか子の父は、旭川に駐留する進駐軍相手に商いをはじめていた。多少なりとも英語を理解する絹子は重宝され、充実した生活を送っているようである。

「ただのあばずれじゃない。どうしてあんな人とユキオ君のお父さんは仲良くするの。私あの人嫌い」
 とたか子はたか子らしい不満をもらした。
 板挟みという言葉が脳裏をよぎるものの、ユキオはどうしてよいかわからず無言を貫くのみであった。

***

 倉庫には大きな木箱が積み上げられ、たか子の父や従業員達が箱の間を縫うように歩き回っている。
 その中に絹子もいた。
 久しぶりに会う絹子は驚くほど化粧が薄くなっており、清一郎が彼女に気付くまでには多少なりとも時間がかかった。
「清さんがここさ来るのは珍しいんでないかい」
 清水屋の主人はストーブの前で暖を取っていたが、清一郎を見るなり嬉しそうに手招きした。

「ええ、まあ」
「欲しいものがあるなら持っていきな。あんたに丁度いい大きさの外套があったね。絹ちゃん、どこにやったかね。海軍だか空軍だかの茶色のやつだよ」
 絹子が両手で抱える外国製の外套は、見るからにずっしりとしていた。
 主人に無理矢理着せられ、清一郎は気乗りしないながらも胸の金ボタンを留めてみる。
「いいね、持っていきなよ。男っぷりが上るねえ」

「重てえ」
 清一郎は頑丈そうな木箱の上に座り、袖にも並んだ金ボタンをまじまじと眺めた。
 洒落た清水屋さんならともかく俺には派手すぎる、と清一郎は思った。
 分厚い生地は暖かかったが機動力に欠け、仕事には使えそうもない気がした。
 のろのろと脱ぎ始めた清一郎を手伝う絹子の手が清一郎の襟すじに触れた。

 叫び声をあげる清一郎に絹子は驚きながらも、「初めて会った時もすごい声出してたわよね。今度から気をつけるわ」と半ば同情したように言った。
「きっと俺の急所なんだ」
「動物みたい」
 絹子はくすくす笑いながら外套を受け取る。
 二人に向かってずんずんと歩みよるたか子に気付いたのは、絹子が先だった。

 心なしか目がつり上っているように見えるたか子の目標は、木箱の上であぐらをかいている清一郎である。
「どうして清さんがここにいるの」
 たか子が自分に怒りをぶつけているのはわかった。けれどそれはひどく理不尽な気がした。
 どうしてって言われても、と清一郎は動揺しながらごくりと唾を飲み込む。

「旦那さんが、この外套が清一郎さんにぴったりだっておっしゃってたの。ほら、清一郎さんは背が高いから丈も丁度いいし、似合うでしょう?」
 けれどもたか子は、にこにこする絹子から顔を背け高飛車に言いのけた。
「手当たり次第に色目使って」
 絹子の笑顔がわずかに固くなった。

 倉庫内に気まずい空気が充満していくが、それを制したのは清一郎の発言だった。 
「たかちゃん、子どもがそったら下品なこと言うのはよくねえよ」
「みんな言ってるもん!あんたみたいな節操ない女が日本を駄目にしてるのよ」
 たか子、と自分の娘を叱責する主人の声に従業員達はきまりの悪そうな顔をしていたが、逃げるように自分の仕事に戻っていった。
 ふん、とたか子は父親にも背を向け、大股で出口に向かった。
 清水屋の主人はすまなそうな顔を見せると、たか子の後を追っていった。

「彼女、あなたのことが好きなのね」
「俺?ユキじゃなくってか?」
 鈍いわ、と絹子は残念そうに首を振る。
「俺はユキの兄貴みたいなもんだから、それだけだべ」
 否定する自分を見すえる絹子の表情は、なぜか悲しい気がした。
「どうしてわからないの?」
 絹子の声にも、穏やかな哀しみが含まれていた。
 清一郎は何も言い返せなかった。落ち込みながら帽子を脱ぎ、汗ばんだ髪を乱暴にかきまわした。

 しばらくしてから、沈黙を払拭するような優しい絹子の声がした。
「野良猫だってもっと優雅に毛づくろいするわ」
「犬の水浴び見たことねえのか」
 もごもごと呟く清一郎に向かって、絹子は軽やかな笑い声を上げる。
「そうね、そっちのほうが清一郎さんらしい」
 絹子は外套をたたみ直すと清一郎の隣に置いた。そして不思議そうにもう一度外套を開くと、腰のポケットから何かを取り出して清一郎に差し出した。

「なんだこれ」
「外国の南京錠みたい」
 真鍮製のごつごつとした塊は、かたつむりを連想させた。
 二人は珍しそうに眺めつつ鍵穴を探していたが、どこにも見当たらない。
 もはや頼りない表情を隠すことも忘れ、弱々しく頭を振りながら清一郎は小声で言った。
「俺にはよくわかんねえ。そっちはあんたがもらっておけばいいべ?」
 絹子はふわりと微笑み、自分の手のひらの錠前に目を落とした。

「嘉一さんはこういうもの好きかしら。男の人に贈り物なんて全然思いつかなくて」
 下宿や勤め口を探してくれた嘉一に、是非とも礼がしたいのだと絹子は言った。
「前のお部屋はすごく古くて寒くて、でも新しい下宿はストーブもあるし、女の子ばかりで楽しいの。嘉一さん、喜んでくれると思う?」

 俺に聞かれても、という投げやりな言葉を飲み込み、清一郎はできる限り親身な言葉を返したつもりだった。
「なんでも嬉しいに決まってるべ。たぶん」
 あんたがくれたものなら、なんだって嬉しいはずだ。
 清一郎の的を得ない返答に、絹子は「うーん」と考え込んでいた。
 果たして自分は一度なりとも絹子の役に立ったことがあっただろうか、と清一郎はまたもや気持ちが沈みかける。

「金庫のじょっぴんみてえな形だな。どうやって外すんだ」
 錠前の中央には、円状の目盛りがついていた。
 掛け金には細い針金を通した紙がぶら下がっている。絹子はやおらその札をひっくり返すと「右に二度回して十、左に一度回して三」と言った。

著者

渡部ひのり
時代劇もファンタジーもBLも恋愛物も刑事ものも、なんでも好きです。面白いものに垣根はありませぬを体現できるようになれたらいいなと思っています。

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