【文豪】

50、43、そして35(6)


 マサナの住む官舎の二、三軒向こうの空き家に、嘉一とユキオが落ち着いた。
 しばしの後、嘉一と昔のように二人で組み、清一郎は樺太にいた頃と同じように汽車を動かした。
 マサナの計らいには、全くもって頭が上がらない。
「嘉一さんがいるから俺は助手のまんまで、ちっとも偉くなれねえ」
 と清一郎は表向きの不満をもらす。けれど嘉一と組むことにより、実力以上のものを発揮するのも事実であった。
 力だけは人並み以上だが、繊細な技術と冷静な思考力を要する機関士の仕事は清一郎に向いていないのかもしれない、と志づは思う時もあったが、少なくとも嘉一に託すことに間違いはないようだ。

「俺よりよっぽど優秀なんでねえか。俺は書き物の方が向いてるからって、さっさと汽車から降ろされたし」
 とマサナは妻に冗談半分に言う。
「嘉一さんからいいところを盗んで、早く一人前の機関士になってほしいもんだけど」
 清ちゃんが書き物なんてもってのほかだ、と志づはあきらめ顔である。

 清一郎は旭川から稚内方面へ北上した名寄(なよろ)の区間を担当していた。
 日本でも屈指の急勾配の山間部を縫い、名寄盆地へと抜ける道は文字通り平坦ではなかった。
 二年経った今でも清一郎には、毎日が命がけの峠越えである。
 けれど嘉一の背中を見れば、不思議と難所続きの鉄路も以前ほど苦ではなくなっていた。

 嘉一の背中を追うのは気が楽だったし、一緒に仕事をする安心感は他のどの機関士より大きいものだった。
 だけど、いつまでもこうやってカマに石炭を放り込んでいるだけじゃあ駄目なんだ、と清一郎は煙を吸い込まぬよう口にくわえた手ぬぐいで素早く汗を拭う。
 運転中の機関助士の仕事といえば、絶え間なく火室に石炭を投げ入れることに尽きた。それもただやみくもに投げ入れればよいというわけでもなく、効率よく石炭を燃やす為には石炭の配置にも気を配らねばならない。
 実際に運転する機関士ともなれば、あらゆる計器に注意を払い、わずかな音の差異や線路の状態も逃せない。嘉一と汽車は、常に一心同体であった。
 俺にもいつか、嘉一さんのように汽車と分かりあえる日がくるのだろうか。
 その背中は清一郎より小さなものであったが、今まさに越えようとしている塩狩峠同様、越えるのは容易くはないと物語っていた。 
 汽車が奏でる轟音でさえ、嘉一にとってはむずがる赤子の泣き声でしかないようであった。

 大泊で別れた後、嘉一の身に何が起きたのか、本人の口から一切語られることはなかった。
 酷い目に合わされて体が不自由になったわけでもなく昔のままの嘉一であったから、清一郎も彼が無事ならそれでいいのだと触れようともせず、二人の時間は過ぎていった。
 ただし別れ間際に手渡された懐中時計と指輪は、幸運にも売り飛ばされることなく、再び嘉一の手に戻された。
「懐中時計一個じゃ、せいぜい米一升分がやっとだ」

 ユキオも同様、樺太にいた頃と変わらない生活が戻ってきた。
 一つ違うのは、来年は高校に進学する予定であり、遅くまで勉強する日が多くなっていた。
 それでも休みの日は、大人の男達に連れられて忠別川でマス釣りに興じたり、川向こうの神楽岡(かぐらおか)の林を散策したりした。
 マサナ以上に口数の少ない嘉一であるが、語らずに飲み込んだものが腹の中に小石を詰め込むように蓄積されているのではないかと、子ども心にユキオは思った。
 ユキオを更に不安に駆り立てたのは、一度自分の前に現われた見知らぬ男の存在だった。
 あれ以来、あの男と直接話をする機会はなかったが、気が付けば不吉な影のように父親にまとわりついている。

 二人が川で釣り糸を垂れていると、遠くから含み笑いをもらす男がいた。
 市場からの帰り道、数メートル離れた所からつかず離れずの距離を保ち、自分達の後ろを歩き続ける時もあった。
 男と嘉一が会話することはなかったが、一度振り返った時に会った目は、獲物はお前だと言わんばかりの怪しい光を放っていた。
 あの男の目的は他ならぬ嘉一である、とユキオは嫌でも知る。
 皆は知っているのだろうか。
 嘉一にまとわりつく、あの不吉な男の存在を。

 おそらく清一郎はいまだに気付いていないのだろう。
 そうでなければ、あんなにのほほんと構えていられるはずもない。
 誰かに話したかったが、自分が関わってはならないと直感していた。
 あの男は普通じゃない。
 お父さんによくないことが起きなければいいのだけど、とユキオは思い、けれど黙って毎日父を見送った。

 一方で清一郎は、何食わぬ顔をして嘉一の異変に気付かないふりをしていた。周囲にはのん気で鈍く無駄に血の気が多いと評されていたが、見るからにおかしな男が嘉一と接触していれば、さすがに気付かぬはずもない。
 ある日駅前でたか子に出くわした時、彼女は思いもよらぬことを口にした。
「ユキオ君に話しかけてきた人が、ものすごく怪しいのよ。お父さんの知り合いって言ってたけど、あんな胡散臭い人が知り合いのはずがないわ。絶対、前科者よ」
 たか子の説明によると、その男は道内の炭鉱を転々として樺太に渡ったらしい。
 栄のおばさんのところで得意げに数々の武勇伝を披露していたと、鼻息荒くたか子は教えてくれた。

 そして今日、たか子いわく前科ある男が、自分の目の前でにやにや笑いながら突っ立っている。
 とうとう来やがった、と清一郎は敵意もあらわに全身で身構えていた。
「あんた、あいつから何も聞いてねえのか。樺太に残って何をやっていたか。まあ、言えるわけもねえよな。うっかりもらそうもんなら、自分の身も危ういって重々知ってるからな」
「なんだおめえは。嘉一さんの周りをうろちょろしやがって」
 清一郎は精一杯凄みのある目で男を睨みつけた。

 男にとっては、たかだか二十を過ぎた程度の清一郎など、恐るるに足らぬ存在のようである。ふん、と鼻先で笑うと、立ち去ろうとする清一郎にゆったりとついてきた。
「樺太にいたころの知り合いだよ」
「俺はおめえなんか知らねえ」
 関わりたくない人種だと、清一郎にもすぐさまわかるほどの悪人面であった。
「あんた達が引き揚げた後、俺も樺太に残ってたんだよ。つてがいろいろあるからな、行ったり来たりするのもわけねえんだ」

 今となっては、占領地の樺太から内地へ戻るのは容易ではない。国交は閉ざされたも同然であり、決死の覚悟で日本へ帰る人々も数多くいた。
 密航者ともなれば、確かに前科者なのかもしれない。

「あいつが敷香に戻って何をやっていたのか、本当に知らねえのか」
 別れた後に嘉一が敷香に帰ったというのも初耳であった。揺れる心を抑えながら、清一郎は平静を装った。
「人殺しでもしたっていうような口ぶりだな」
「小難しいことには頭がまわらねえって顔だな、兄さんよ」
 何か一言言い返そうと振り向いた清一郎の心に、男の笑顔がタールのような粘っこさで張り付いていた。
 嘉一の身に何が起きたのか、この男は確かに知っているのに間違いはなかった。
 けれどそれを聞いて何になるのか。今更それが何になるというのか。
 清一郎は迷いながら、黙って男を見つめていた。


著者

渡部ひのり
時代劇もファンタジーもBLも恋愛物も刑事ものも、なんでも好きです。面白いものに垣根はありませぬを体現できるようになれたらいいなと思っています。

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